第1章 仕方なく身代わり嫁に?なら絶縁しよう!

「お姉ちゃん、お願い……お父さんもお母さんも、お兄ちゃんたちのことも責めないで! 全部わたしのせいなの……」

桜井結衣が口を開くより早く、乾いた音が弾けた。

バシン――容赦なく頬に叩きつけられる、耳をつんざく平手打ち。

あまりの力に、顔の半分が一瞬で痺れ、耳の奥がじんじんと鳴った。

殴ったのは、実の父――桜井国宏だった。

「この逆らい娘が! 妹は心臓が悪いんだぞ、知らんのか? もうすぐ手術だっていうのに、よくも刺激しやがったな! どうしてお前みたいな毒のある娘が生まれた!」

結衣は顔を上げた。父の怒りに歪む表情の向こう、母と智也に守られ、涙に濡れた少女がいた。

桜井美桜。

六年前。結衣は田舎から桜井家へと連れ戻された。

そのときは胸が躍った。これでやっと、血のつながった家族と、完全な「家」が手に入ると信じた。

けれど六年かけて見えた現実は――自分は養女の美桜の髪の毛一本にも及ばないという事実だった。

自分はただの移動式の血液バンク。

美桜の「清純で善良」を引き立てるための比較対象。

いつでも差し出せる、代用品。

まさに、今みたいに。

まるで自分が世界一の悪人であるかのように、家族全員が警戒と嫌悪の目で睨んでくる。美桜に何かするんじゃないかと怯えるように。

「ごほっ……お父さん、姉さんを叩かないで……」

美桜がか細く言った。泣き声を押し殺した声で。

「黒崎家との縁談……わたしが行くよ……。黒崎理人さん、植物状態で、もう長くないって聞いたけど……桜井家のためなら、わたし、いいの……」

一言一句が「譲るふりをした押しつけ」だった。結衣を、身勝手で薄情な人間に仕立てるための。

案の定、実母の桐山嵐子はたまらない様子で美桜を抱きしめる。

「美桜……私の宝! 何を言うの! もうすぐ心臓の手術なのよ? どうしてそんな体で“厄払い”みたいな真似をして嫁げるの! 黒崎理人なんて生きた死人だって、医者も今月は越えられないって言ってる! 嫁いだら、生き別れの未亡人になるだけ!」

長男の桜井智也も、吐き気がするほど露骨な嫌悪で結衣を見た。

「桜井結衣、お前、恥ってものがないのか? 美桜はお前のために命まで捨てようとしてる。黒崎家が名指しで“桜井家の娘”を求めてるんだぞ。お前が嫁がないなら、美桜に死ねって言うのか!」

「死ね」――その二文字が、この縁談の正体を暴いていた。

世界屈指の財閥・黒崎グループ。その実権者、黒崎理人は一年前の事故で重傷を負い、植物状態になった。

黒崎家は名医を探し尽くし、最後はどこからか「結婚で運を呼び戻す」という迷信にすがり、相手として桜井家を選んだ。

そして「福」を担がされるのが、美桜。

だが、婚期が迫った今日。美桜は心臓発作を起こし、泣き叫んで「嫁げない」と言い出した。

そこで押し出されたのが、隅に追いやられていた“本物の娘”――桜井結衣。

笑える話だ。

仲良く団結して同じ敵を憎む、幸せそうな家族の輪を見ていると、結衣の心臓は見えない手で握り潰されるみたいに痛んだ。息をするだけで胸が裂ける。

連れ戻されたこの六年、彼らが自分を家族として扱ったことが一度でもあったか?

美桜は高価なドレス。結衣は露店の安物。

美桜はピアノにバレエ。結衣は家事を押しつけられる。

美桜が「具合が悪い」と言えば夜中でも家庭医を呼ぶのに、結衣が高熱で肺炎になった時は「輸血を嫌がって仮病だ」と決めつけた。

六年もあれば、石だって温まるはずだ。

けれど彼らの心は氷河みたいに冷たく、どれだけ触れても溶ける気配すらない。

そのとき――。

中心に祭り上げられた美桜が、母の胸に顔を埋めたまま、こっそり視線だけを上げた。結衣へ向けて、勝ち誇った挑発の眼。

――ほらね、結衣。戻ってきたって何も変わらない。愛されるのはいつだって私。あなたは誰にも要らない野良犬。

喉の奥に鉄の味が込み上げ、結衣はそれを無理やり飲み下した。

後悔?

違う。

吐き気だ。

結衣はようやく、完全に諦めた。

家族の驚愕の視線の中、彼女はゆっくりと――一文字ずつ、凪いだ声で言った。

「……いい。私が嫁ぐ」

彼らに反応する暇すら与えず、踵を返す。階段を上り、屋根裏の小さな部屋へ戻った。結衣の痕跡がほとんどない、物置みたいな“寝室”。

持ち物は少ない。小さなスーツケースが一つ。

着替えが数着、養母が残した写真が一枚、そして――開発中の小型医療ロボット。

五歳で迷子になったあと、生体医工学を研究する老教授に引き取られた。彼は生涯の知を惜しみなく与えてくれた。

あの馬鹿げた「家族愛」のために戻らなければ、こんな場所で六年も踏みにじられることはなかったのに。

コンコンコン。

ノックの音。扉が開き、智也が入ってくる。黒いカードを一枚、ベッドへ放り投げた。

「中に500万入ってる。補償だ。結衣、親が冷たいなんて恨むな。恨むなら自分の運を恨め。黒崎家に行ったら大人しくしてろ。桜井家の恥になるなよ」

乞食に施すみたいな口ぶりだった。

結衣はカードすら見ない。

「婚礼の贈り物は全部、私のもの。……それから、今日をもって私とあなたたちは他人」

その冷えた声が智也の癇に障ったらしい。

「何だその態度。いいか、黒崎家に嫁いだからって、調子に乗るなよ。全部、美桜に返すためのものだ!」

吐き捨てるように言い、扉を叩きつけて出ていった。

結衣は気にも留めず、スーツケースのジッパーを引いて、少ない荷物を淡々と整え始めた。

また扉が開く。次男、桜井楓だった。

暴れる智也と違い、いつも穏やかで紳士的。金縁眼鏡をかけた姿は、古い時代の貴公子みたいだ。

「結衣」

湯気の立つ白湯を手に近づき、柔らかい声で言う。

「法廷から戻ってきて話を聞いた。智也は短気だ、気にするな。父さん母さんも……一時の判断ミスだよ。楓が話してくる。嫌なら無理に嫁ぐ必要はない。桜井家の娘が、身を犠牲にして利益を取るなんて、本来あり得ない」

三人の兄の中で、楓が一番優しかった。

六年の間、結衣の体調を気にかけ、「輸血で無理してないか」と言ったのも彼だけだった。

一瞬だけ――本当に優しい実兄がいたのだと錯覚しそうになる。

差し出された白湯を口に含んだ、その一口で、違和感が刺さった。

医療に長く触れてきた嗅覚が、瞬時に警鐘を鳴らす。

結衣はコップを置き、無表情のまま楓を見上げた。

「……水に何を入れたの?」

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