第2章 命が欲しい?まず金を持って来い!
桜井楓の顔に浮かんでいた穏やかな笑みが、ほんの一瞬だけ引きつった。だが次の瞬間には、何事もなかったかのように元へ戻る。
パン、と手を叩く。
途端に、三男の桜井辰也が乱暴に踏み込んできた。こいつは昔から桜井美桜の腰巾着で、いまは苛立ちを隠そうともせず、目つきまで凶悪だ。
「何をグダグダ話してんだよ! 桜井結衣、薬入りの水はもう飲んだだろ。今日の縁談、嫁ぐしかねぇ。嫁がねぇなら死ね!」
辰也の怒鳴り声に、桜井楓は逆に肩の力を抜いた。もう取り繕う気すらないらしい。
ゆっくりと眼鏡を押し上げる。レンズの奥の瞳から、温情の欠片は跡形もなく消えていた。残っているのは、計算と冷酷だけ。
「結衣。俺を恨むなよ。これは辰也がカジノ筋から手に入れた新型だ。発作の症状は急性心疾患にそっくりだが……苦しみは十倍だ」
ポケットから書類を二通取り出し、結衣の小さなドレッサーにバン、と叩きつける。
「選べ。
一つ目。大人しく身代わりで嫁ぐ。結納はうちが受け取る。お前は桜井家の娘のまま、俺たちも兄であり続ける。黒崎家が手を出してきたら、桜井家が後ろ盾になってやる」
そしてもう一通を指で弾いた。表題の文字が、嫌でも目に刺さる。
『絶縁同意書』
「二つ目。これに署名して桜井家と縁を切る。ただ……お前がそんな馬鹿をするとは思えないがな」
横で辰也が唾を吐くように言い捨てた。
「桜井結衣、調子に乗るなよ。あの薬は一滴でも体を蝕む。解毒剤はねぇ。苦しみ抜いて死ぬだけだ!」
二人とも確信していた。結衣が、結納のために家と縁を切れるはずがない、と。捨てられる恐怖に縋って、結局は従う、と。
だが結衣は、書類を一瞥しただけだった。
ペンを取り、迷いなく『絶縁同意書』に署名する。
筆跡は冷たく整い、震え一つない。
「……なに」
桜井楓の余裕が、そこで初めて崩れた。
辰也も言葉を失い、口を半開きにしたまま固まる。
結衣は署名済みの紙を押し返し、氷みたいな声で言った。
「黒崎家の結納品は全部、私のもの。そうじゃないなら――黒崎家に“死体”を送ることになる」
言い終えると、結衣はスーツケースをバタンと閉める。そしてその場に腰を落とした。まるで、ここで死ぬのを待つと言わんばかりに。
「考えて。薬で死にかけの私を送る? それとも――心臓が今にも止まりそうな、あなたたちの可愛い美桜を送る?」
廊下の向こうで、気配が跳ねた。騒ぎを聞きつけた桜井美桜が、火の粉が自分に飛ぶのを恐れて芝居を始めたのだろう。
「ごほっ……智也、わたし……胸が痛い……」
焦りきった桜井智也の声が返る。
「美桜! どうした! 医者を呼べ、早く!」
外は一気に混乱に飲まれた。
その混乱の中、美桜は戸口にもたれ、屋根裏の結衣へまた得意げな視線を投げてくる。勝ち誇った、挑発の眼。
だが結衣は冷めた目でそれを見返すだけだった。兄妹愛の茶番を眺めても、胸はもう波立たない。
桜井楓と辰也が目を合わせる。そこに浮かんだのは、逡巡と凶気。
さらに廊下から、美桜が追い打ちをかけた。
「黒崎家の結納、まだ届いてないよね……植物人間に嫁がせるんだし、どれくらい出すんだろ……」
その一言が、二人の欲を決定的に刺激した。
――どうせ結衣は嫁いでも守りの未亡人。いずれ泣いて戻ってくる。
――植物人間に嫁を取る程度、結納も大したことはない。
――先に嫁がせ、あとで取り返せばいい。
桜井楓は奥歯を噛みしめ、ペンを走らせた。結納品の贈与契約を修正し、帰属をすべて結衣名義へ書き換えていく。
「……いい。全部やる! 桜井結衣、後悔するなよ!」
結衣は自分の控えを回収し、口元に薄い嘲笑を刻んだ。
そのとき――階下から執事の恭しい声が響く。
「旦那様、奥様。黒崎家より、結納品を運ぶ車列が到着いたしました」
客間では、黒崎家の総執事が人を従え、豪奢な箱を次々と運び入れていた。
箔押しの目録を広げ、朗々と読み上げる。
「現金3億。江景の高級マンション10戸。都心の商店街の優良店舗20区画。権利証はすべてこちらに。ピンクダイヤのネックレス『エターナル・ハート』1点。オーダーメイド宝飾2箱。黄金の装飾品10箱……」
桜井国宏と桐山嵐子は目が据わり、息が荒くなる。顔には欲がべったり張り付いていた。
結衣はその視線を浴びながら、階段を一段ずつ降りていく。
そして目録を執事の手から奪うように取り、黒いカードを差し出した。
「全部、換金してください。現金も含めて、この口座へ」
黒崎家の総執事は一瞬だけ固まったが、すぐに恭しく受け取った。
「かしこまりました、若奥様」
桜井国宏が大きく息を吐く。桐山嵐子は宝石や金が運び出されそうになるのを見て、甲高い声を上げた。
「やめなさい! 何してるの! 運ぶんじゃない!」
結衣は冷たく、結納品贈与契約書を彼らの前へ投げつけた。
「白紙に黒字。よく読んで」
三人の兄の顔色が、みるみる最悪になる。
黒崎家の出し方がここまで桁違いだとは思わず、臓腑が煮えくり返るほど悔しかったに違いない。
美桜が智也の腕を振りほどき、胸を押さえながらわざとらしく結衣の前へ出てくる。涙目で、いっそう可憐に見せつけながら。
顔を寄せ、二人にしか聞こえない声で囁いた。
「お姉ちゃん、お利口にして。黒崎理人が死ぬまで耐えたら、私がパパとママにお願いして迎えに行かせる。そしたら、またいい縁談を探してあげるから」
結衣は淡々と返した。
「そう。じゃあ心臓、大事にして。早く死なないでね。あなただけ先に逝ったら、寂しいでしょ」
美桜が意を決したように膝を折りかけた瞬間、智也が素早く抱き留め、庇うように腕の中へ閉じ込める。
「姉さん、安心して。桜井家のものは全部姉さんの。俺は絶対に奪わない」
それでも結衣が微動だにしないと、美桜は悔しそうに泣き続けた。
「パパとママはお姉ちゃんを育ててくれたし、会社もいま大変なの。お金は家に残すべきだよ……私が嫁ぐなら、私だって……」
結衣は、その偽りだらけの顔を眺めた。
もう一言でも付き合うのが、人生の無駄に思えた。
だから淡く口角を引き、遮る。
「じゃあ、あなたが嫁げば」
美桜の泣き声が止まった。
両親と兄たちの――欲と迷いが混じった視線を感じ取ったのだろう。顔色が変わり、恐怖に目を見開いたかと思うと、白目を剥き、棒みたいに倒れた。
桐山嵐子が低く呪う。
「この恩知らず! 桜井家がなければ、黒崎家に身代わりで嫁ぐ資格すらないくせに!」
「何? もっと大きな声で。聞こえない」
「……っ!」
桐山嵐子は怒りで震え、吐き捨てた。
「産まなきゃよかった!」
結衣は肩をすくめる。
「絶縁同意書、もう署名した。私の生死は桜井家と無関係」
そして振り返らず、黒崎家の用意した婚礼車に乗り込む。
走り出した車は砂埃を巻き上げ、二度と戻らない速度で遠ざかった。
