第3章 夫を寝取るところだった

車内で、薬が効き始めた。

体の奥底から、じわりと熱が湧き上がる。意識の輪郭が白く滲み、遠のいていく。

桜井結衣は、自分の内側で名もない火が――四肢の隅々から、少しずつ燃え広がっていくのを感じた。

熱い……。

喉が渇く。皮膚が灼けるみたいに火照る。

――おかしい。

結衣ははっと目を見開いた。医学の天才を自負する彼女は、自分の体の些細な変化を見逃さない。

桜井辰也が用意した“新型”は、口で言うほど単純な代物じゃない。

何をさせたい?

新婚初夜に醜態を晒させて、黒崎家を本気で怒らせるつもりか。

体内の熱波が波のように押し寄せ、理性を呑み込みかける。

結衣は歯を食いしばり、花婿不在の――笑い種みたいな婚礼の段取りを、たった一人で最後までやり切った。

周囲の視線は、同情と憐憫、そして隠しもしない嘲りで満ちている。

「身代わりの嫁ってあの子? 顔はいいのに、可哀想に。生き別れ未亡人確定だわ」

「黒崎理人、もう息だけって話だぞ。桜井家、金に目がくらんで娘を火坑に突っ込んだんだろ」

「娘っていうか、田舎から連れ戻した“いらないほう”らしいよ。じゃなきゃこんな話、回ってこないって」

黒崎家を取り仕切っているのは、黒崎理人の伯父・黒崎明信。終始険しい顔で、この縁談に興味があるようには見えなかった。

お茶を一通り済ませた頃には、結衣はほとんど最後の力だけで動いていた。

新居の扉を押し開け、入る。

バタン――扉を閉める音が、外の世界を切り落とした。

部屋は暗い。厚いカーテンが夕刻の光さえ遮っている。

そして、その瞬間。薬効が完全に爆ぜた。

視界がぐにゃりと二重になり、足元が頼りない。全身が灼けるほど熱く、力が抜けて泥みたいに崩れそうだ。

結衣は本能だけを頼りに壁を伝い、よろよろと奥へ進む。

ぼやけた視界に、背の高い影が立っていた。

ベッドのそば。近づくだけで分かる、突き刺すような冷気。

幻覚?

けれど、その冷たさは――今の結衣にとって致命的な誘惑で、唯一の解毒剤だった。

理性が千切れそうになる。

結衣は支えきれず、壁から手を離し、最後の力で影へと飛び込んだ。

ドン。

額が、硬く冷たい胸に当たる。

男の体は揺れもしない。ただ、雪山の頂から吹き下ろすような冷気が一気に結衣を包んだ。

溺れかけた魚が水を得たみたいに、結衣は安堵の吐息を漏らし、体を擦りつける。腕が勝手に男の首へ絡みついた。

「桜井家が寄越した花嫁か」

掠れた低音。骨まで冷える声。

結衣は意味を拾う余裕すらない。ただ脳が叫ぶ――この氷にしがみつけ。

彼女はさらに密着し、スーツの上を這う指先でシャツのボタンを探り、冷たさを求めて外していく。

襟元へ手を差し入れ、躊躇なく顔を近づける。体内の炎を鎮める冷気を貪るように。

そして本能のまま、熱い唇を押し当てた。

男の体が鋭く硬直した。次の瞬間、手首を掴まれる。骨が砕けそうなほどの力。

天地が反転する感覚。足が床から浮き、抗えない力で抱え上げられる。

さらに冷たい空間へ――。

ザァ――。

頭上から氷水が叩きつけられ、意識が無理やり引き戻された。胸の痛みと冷えで、理性が一気に蘇る。

結衣は濡れた壁に手をつき、水滴を拭いながら目を開く。

視界が滲みから輪郭へ戻っていく。

そこにいたのは、攻撃的なほど整った顔だった。

高い鼻梁、引き結ばれた薄い唇、神が彫ったみたいな造形。

けれど底の見えない瞳には、冷淡な査定の色が渦巻いていた。

――さっきの“氷山”。幻じゃない。

でも、誰?

新郎の黒崎理人は植物状態で動けないはずだ。

なのにこの男は立っている。しかも彼女を浴槽に叩き落とした。

桜井家の算段が脳裏を刺す。

桜井楓、桜井辰也……。

薬で心疾患を偽装し、さらに新婚初夜に醜態を晒させ、黒崎家を激怒させて殺す。

そうすれば婚礼の品を正当に呑み込める。絶縁同意書に署名した結衣が死んでも、誰も責任を取らない。

「新婚初夜から他の男に飛びつくなんて、ベッドで死にかけてる旦那に申し訳ないと思わないのか」

低く響く声が、浴室に反響する。玩味と嘲り。

結衣の頭の中が、澄み切った。

捕まった狼狽はない。代わりに唇が妖しく弧を描く。

「あなた、誰?」

濡れた指が男の胸に触れ、輪郭をなぞる。

「この新居にいるべき男は、私以外なら――『もうすぐ死ぬ』生きた死人の旦那だけのはずでしょ?」

結衣は濡れた手で男のネクタイを掴み、ぐい、と引いた。

首を傾げ、耳元へ。熱い吐息を落とす。

「もしかして……私の“いいお兄ちゃんたち”が、私を早く死なせたいから用意したサプライズ? なら、喜んで受け取る」

言い終えるより早く、唇を重ねた。

男の瞳の奥に危険が跳ね上がる。

けれど爆発する直前、結衣は浴槽の縁に肘をつき、流れるように身を翻して外へ出た。

無駄のない動き。

扉を閉め、鍵を回す。カチリ、と小気味いい音。

浴室の男は、そこで反省でもしていればいい。

登徒子の代償というやつだ。

結衣は新居を出た。薬は冷水でだいぶ抑えたが、まだ体の奥でくすぶっている。

まず執事に会い、スーツケースを取り戻す。中の小型医療ロボットが使えるかもしれない。薬物を完全に抜かなければ安全ではない。

だが廊下に出た瞬間、黒崎理人の継母――橘敏恵にぶつかった。

服装が少し乱れ、不機嫌に眉を吊り上げる。

「まったく、躾がなってないわね! こんな時間に理人の世話もせず、どこへ行くつもり?」

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