第4章 突然消えてまた突然現れた男

橘敏恵は桜井結衣の腕を半ば引きずるようにして新居へ連れ戻すと、カッとカーテンを引き開けた。薄明かりを呼び込んだまま奥の間へ踏み込み、ベッドに横たわる男を指さして、吐き捨てるように怒鳴る。

「黒崎家が大金はたいて迎えたんだからね。嫌だの何だの言うなら、今すぐ叩き出すよ!」

桜井結衣は無言でベッド脇へ進んだ。

男の顔は、焼け爛れた皮膚が裂けて肉が覗き、火傷痕で覆われている。五官は判別できないほど崩れ、胸の上下もほとんど見えない。

――確かに、長くはなさそうだ。

結衣はまぶたを持ち上げ、瞳孔を覗き込む。光への反応はひどく鈍い。

医学的に言えば、深昏睡。生命兆候は衰退し続け、いわゆる植物状態。

それでも、結衣の眉が寄った。

……おかしい。

あまりに「標本」じみている。

症状の一つ一つが、教科書に載る典型例そのまま。典型すぎて、むしろ――作られた匂いがする。

手を引き、視線をベッドサイドへ滑らせる。並べられた医療機器、薬剤、点滴バッグ。

結衣は薬瓶を一本取り上げ、栓を抜いた。鼻先に寄せ、ほんのわずか吸う。

顔色が、すっと落ちた。

この薬は体内の特定酵素と反応し、強力な神経抑制物質を生成する。短時間で深昏睡、場合によっては脳死判定に近い所見まで「完璧に」再現できる。

そして――ベッド脇の「栄養輸液」。あれが本命だ。

微量に混ぜられた別成分が、この薬と体内で反応すれば、半月も経たずに「装う死」が「本当の死」になる。しかも事故死に見えるよう、跡も残さない。

法医学でも、掘り起こせないタイプの殺し。

「何をジロジロ見てんの?! 田舎育ちの娘が、医者の真似事? サボるんじゃないよ! 理人に何かあったら、真っ先にあんたを埋めてやるから!」

橘敏恵の声が甲高く跳ねる。結衣が薬を見ていることに気づいた瞬間、警戒が露骨に顔に出た。

結衣は薬瓶を元に戻す。怒鳴り声など、聞いていないように。

代わりに、脇で点滅するモニターを指さした。

「心拍数55。頭蓋内圧は上昇し続けてる。SpO2は臨界域を行ったり来たり。さっきの大声でストレス反応が出ました」

橘敏恵は目を見開き、反射的にモニターへ視線を投げた。曲線も数字も理解できない。だが、結衣の断言が妙に現実味を帯びて、背筋を冷やした。

結衣は淡々と畳みかける。

「この状態で強い光、騒音、感情的な言動は刺激になります。鎮静剤はBZD系が入ってる。一般的には有用でも、頭蓋内圧が高い患者は量を誤ると中枢を逆に刺激する。治療じゃなく、悪化です」

「……何を訳の分からないことを!」

橘敏恵は言葉の洪水にくらみながらも、引き下がらない。

「私は医者の言う通りにしてるだけ!」

結衣は一歩詰め、真っすぐ見据えた。

「どの医者が?」

目が逸れない。

「頭蓋内圧が高くて呼吸抑制のリスクもある。既往だってあり得る。そんな患者に、こういう使い方を勧める医者がいるんですか。早く目覚めてほしいとしても、賭けが危険すぎる」

目覚める?

そんなこと、あり得るはずがない。黒崎理人が今起きたら――橘敏恵と黒崎明信がやってきたことは、根こそぎ剥がされる。

橘敏恵の顔から血の気が引いた。威圧するために来たはずが、数分で背中に冷汗が滲む。

どうして、この娘が――。

「……あんたは何も分かってない、クズ!」

吐き捨てるように罵り、結衣が嗅いだ薬瓶をひったくった。

「明日、専門の看護を呼ぶ! いい? あんたは余計なことをせず、大人しく世話しなさい!」

体裁だけ残して、逃げるように去っていく。これ以上見抜かれるのが怖いのだろう。

広い新居に、ようやく静寂が戻った。

結衣の顔から冷えが抜け、疲労が浮く。

まず確認すべきは、バスルーム。

鍵を回し、扉を押す。

――空っぽ。床に水の跡があるだけ。

あの背の高い男は、消えていた。

窓は閉まっている。扉は結衣が外から施錠したはずだ。

大の男が、忽然と。

結衣の瞳が細くなる。

この黒崎家、思った以上に面白い。

追うのは後だ。彼女は入口の壁際、置かれたスーツケースへ向かった。橘敏恵が唯一「慈悲」として持ち込ませた荷物。どうせ長くはない嫁の持ち物など、価値がないという判断。

鍵はかかっていない。

開けると、手のひらサイズの銀白色の金属ブロックを取り出した。

側面の微小ボタンを押す。無音で展開し、細い機械腕が数本、髪の毛ほどの探針が一本。先端に淡い青い光が灯る。

空中に、仮想スクリーンが投影された。

小型医療ロボットのモジュール――超小型医療アナライザー。

彼女の切り札。

本体の各機能はまだ不安定な部分があるが、この分析モジュールだけは、すでに何度も実証を重ねている。

結衣は無表情で袖をまくり、白い腕を差し出した。

探針が静脈へ滑り込み、血を一滴採取する。

スクリーンに数値が奔流のように走り、数秒で結論が弾き出された。

【「ローズマリー」変異毒素を検出。強力な催情作用。神経麻痺により心筋梗塞様症状を誘発。最適解毒時間 残り1時間】

結衣の目が、氷のように冷えた。

辰也は本当に、桜井美桜の忠犬だ。金も手間も惜しまない。

結衣はスーツケースの隠し仕切りから、小さな金属製の薬盒を取り出す。中には密封された透明の薬剤が数本。

一本を選び、さらに別の暗格から匂いのない濃い液体を小瓶で出す。二滴、落とした。

薬液が、淡い琥珀色に変わる。

そのまま自分の体へ注入。体内に残っていた熱と動悸が、はっきり分かる速度で鎮まっていく。

そして視線を、ベッドの「生きた死人」へ。

結衣はベッド脇に立ち、留置針の入った腕から同じ要領で血を採取した。

スクリーンが更新される。

結衣の眉が、わずかに上がった。

【複合神経抑制剤を検出。血算・電解質・髄液所見が臨床症状と著しく不一致。未知毒素を検出。解析中……解析失敗】

解析失敗?

このアナライザーは最上位のAIデータベースへ接続している。未知毒素の大半を割り出せるはずなのに。

乱用された薬、点滴。ここまでの「作り込み」。

黒崎理人を殺したい勢力は、一つではない。

結衣は手元の濃い液体へ目を落とした。

師が遺した遺品。神経系の毒をほぼ中和できる、最後の保険。

迷いは一瞬だった。

彼女は残りをすべて、点滴ラインからゆっくり体内へ流し込む。

今の彼女には、硬い同盟者が要る。桜井家と黒崎家、その盤をひっくり返すために。

敵の敵は、ひとまず味方。

やり切った途端、薬の反動と疲労と緊張が、まとめて押し寄せた。

結衣は耐えきれず、冷たいベッド縁にもたれたまま、意識を手放す。

……

目を覚ましたのは、刺すような視線だった。

感情のないはずの圧が、皮膚を貫いてくる。侵略的な気配に、結衣は反射で目を見開いた。

まずベッドを見る。

全身火傷の男は、相変わらず静かに横たわっている。胸の動きは規則的で、モニターの数値にも変化がない。

まるで昨夜のすべてが、夢だったかのように。

結衣は眉を寄せ、起き上がって再確認しようとした。

その瞬間、視線がさらに濃く、はっきりと輪郭を持つ。

結衣は、ゆっくりと首を回した。

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