第5章 新しい義姉さん、いっそ彼の愛人になればいい
扉口の光が、高い影に切り取られていた。
昨夜の男が、ドア枠にもたれている。どれくらい見ていたのか分からない。
黒いシルクのガウンに着替えていた。高価な布地がするりと体の輪郭に沿い、襟元は大きく開いている。硬い鎖骨の線と引き締まった胸板が、桜井結衣の視界にあからさまに晒されていた。
髪はまだ濡れている。数本の黒髪が額に貼りつき、雫が毛先で揺れたまま落ちない。そのせいで、冷たく白い肌がいっそう際立つ。風呂上がりなのだろう。
男は腕を組み、極限まで力の抜けた姿勢で結衣を見下ろした。底の見えない黒い眼差し。査定と、面白がって火をくべるような玩味。
――上に立つ者の、絶対的な余裕。
桜井結衣は冷たい絨毯に座ったまま、顔を上げて静かに見返した。
瞳にあるのは感情の欠片ではない。怯えも好奇心もない。ただ冷えすぎるほどの明晰さだけ。
上から選別する男。
下から突き返す女。
先に口を開いたほうが、空気で負ける。
時間がじりじりと伸びる。結衣の膝が痺れはじめたころ、薄い唇がようやく動いた。温度のない弧が、口元に刻まれる。
「兄貴の見張りを一晩? 随分と献身的だな」
腕を解き、長い脚で歩み寄ってくる。シルクが太腿の筋肉をなぞるたび、さらり、と微かな衣擦れ。足音はないのに、存在だけが重い。
結衣は動かない。言葉もない。ただ見ていた。
昨夜の一部始終――見られていた。
その事実が心臓をきゅっと締めつけ、次の瞬間、無理やり平らにする。
見られたから何だ。目の前の男はこうして平然と立っている。なら、こいつ自身も秘密だらけだ。
しかも今、確かに「兄貴」と言った。
三人の兄たちが用意した、あの手の男ではない――?
男は目の前で止まり、疲れの滲む小さな顔をひと撫でするように視線でなぞった。最後に落ちたのは、膝に置かれた結衣の手。そこに残る、かすかな針跡。
一瞬だけ目が沈み、すぐに興味深げな査定へ戻る。
「自己紹介しておく。俺は黒崎祁。黒崎理人の腹違いの弟だ」
顎で、空の大きなベッドを示す。
黒崎祁。
黒崎家の隠し子――。
結衣は内心で名を反芻しても、顔色ひとつ変えなかった。
黒崎理人の婚房へ自由に出入りし、この態度。黒崎家の老当主、黒崎亮二が知らないはずがない。むしろ後ろ盾だろう。
結衣は冷たいベッド縁に手をつき、ゆっくり立ち上がった。背筋を伸ばすと、視線の高さがようやく近づく。それでも、彼の前では一回り小さい。
「それで? 何が言いたいの」
声は揺れない。
男が一歩、距離を詰めた。たったそれだけで、二人の間は腕一本。湯気のような水気と、濃い男の匂いが押し寄せる。
「そこまでして養妹の代わりに黒崎家へ来た。植物状態の男に尽くして――何が目当てだ? あいつが死ねば遺産が入る。若い未亡人として派手に生きられるからか?」
刃物みたいな言い方だった。恥の奥をえぐるための言葉。
結衣は黙って聞き、ゆっくり瞬きを一度だけ落とした。まるで、提案の実現性でも検討するように。
数秒後、深い黒い目を真正面から捉え、感情のない薄笑い。
「外れ」
そして淡々と事実を述べる声になる。
「生きてる夫――たとえ植物状態でも。死んでるより、盾になる」
黒崎祁の瞳孔がわずかに縮んだ。
打算を、隠しもせずに差し出す。冷静で、理性で、ぞっとするほど利己的。
「桜井家は私を売った。黒崎家にも、私と黒崎理人が一緒に早く死ねばいいと思ってる人間がいる」
結衣の視線が、男の顔から外れる。
「夫が息をしてる限り、私は黒崎家の若奥様。桜井家も、笑いものにするなら考える。手は出せない。でも夫が死んだら?」
また彼を見る。澄んだ瞳に、ようやく嘲りが少しだけ混じった。
「私がどうなると思う?」
空気が固まる。
黒崎祁は結衣を、じっと見た。三十秒ほど。
女の目は、あまりに澄んでいる。吐く言葉は、あまりに現実的だ。
「いい答えだ」
口角が深くなる。
「自分のため――完璧な理由だな」
結衣は視線を逸らさない。
「じゃあ、あなたは?」
「日の当たらない隠し子が、真夜中に『兄』の婚房に来てまで、そんなに生死が気になる理由は? 何が欲しいの」
隠し子なら、嫡子が死ねば得をするはずだ。そうでなくても、黙って高みの見物でいい。なのに、こうして何度も、堂々と現れる。
黒崎祁の目が沈んだ。
この女、想像以上に鋭い。
波のない顔を見て、彼はふっと笑う。植物人間を装って魚を釣るつもりが、魚は釣れず、無害そうな餌に噛みつかれた――そんな気分だ。
「そこまで賢いなら、当ててみろ。俺が何を狙ってるのか」
軽い笑みで、問いを投げ返す。
結衣は口元だけを引いた。
「当てる気はない」
淡々と、少しだけ苛立ちを滲ませて。
「で、黒崎祁。敵? 味方?」
男の影が結衣を覆う。低い声が落ちてきた。耳に触れそうな距離で。
「敵か味方かは、いつだってお前の選択次第だ」
圧が、肌にまとわりつく。
「桜井家が偽物を寄越した。この件が爺さんの耳に入ったら、どうなると思う?」
結衣は瞬時に計算する。
最初から「養妹の代わり」と言い当てた。
この事実を知るのは、桜井家と自分だけのはずだ。
なら――桜井家の連中と繋がっているか、すでに共謀している。
結衣も笑った。退かない。むしろ、詰める。
湯上がりの熱がまだ残る体温が、近さで分かる距離。
手を上げ、開いたガウンの襟から、指先で鎖骨の線をなぞった。軽いのに、逃がさない触れ方。
「桜井家のあの間抜けどもと、どういう関係? 何をもらった?」
声が低くなる。
「替え玉を暴けば、あっちも無傷じゃ済まない。私だけ殺して終わりなんて思わないで。私が死ぬなら、必ず道連れにする」
黒崎祁の体が、一瞬だけ強張った。
胸元で遊ぶ手を見下ろし、手首を掴む。冷たい力。
「俺を桜井家の連中と同列にするな。侮辱だ」
骨が軋むほど握られても、結衣は眉ひとつ動かさない。静かに見上げる。
「そう」
そして問い返す。
「なら、何がしたいの?」
黒崎祁は手を放し、一歩引いた。危険な距離を取り直す。
「簡単だ」
次に落ちた言葉は、あまりに直球だった。
「俺の愛人になれ」
