第6章 誰かが私を死なせたがるなら、私はそいつを先に殺す

彼は、彼女の顔にようやく「ひび」が入ったのを見て満足げに目を細め、さらに札を積んだ。

「黒崎理人はもう長くない。あいつが死ねば、俺の“大伯父”の黒崎明信が黒崎家を丸ごと呑み込む。俺について来い。生涯、贅沢はさせてやる。黒崎家の女主人の座も、揺るがせない」

一言一言が、甘い毒みたいに耳に絡みつく。

桜井結衣はそれを聞き終えると、数秒だけ沈黙した。

「つまり、私に愛人になれって言いながら、ついでに黒崎明信を潰すための内通役もやれってこと?」

「そう思ってもらって構わない」

黒崎理人は落ち着き払ったまま、彼女を見据えた。

「やらない」

桜井結衣の拒絶は、驚くほどあっさりしていた。

黒崎理人の眉が跳ね上がる。ここまで即答で切られるとは思っていなかったらしい。

「第一、あなたの愛人になる趣味はない」

桜井結衣の声は、今日の天気でも評するみたいに淡々としていた。

「第二、黒崎家の財産が誰のものになるかにも興味がない」

一拍置き、澄んだ瞳で真正面から射抜く。

「私を殺そうとする人間は、先に死なせる。黒崎明信でも橘敏恵でも同じ。あの人たちは黒崎理人を殺して、そのついでに新婚の妻である私も葬るつもり。だから――あの人たちは私の敵」

言葉の筋が、怖いほど真っ直ぐだった。

「でも、共通の敵がいるなら。協力はできる」

黒崎理人は、ふっと可笑しくなった。

罠を仕掛けたのは自分のはずなのに、回り回って、いつの間にか彼女に交渉の席へ引きずり出されている。

「協力、ね」

黒崎理人は面白がるように、その語を舌の上で転がした。

「どう協力する」

「簡単よ」

桜井結衣は口角をわずかに引き、くるりと背を向ける。ベッド脇のゴミ箱へ行き、昨夜使い終えた注射器を拾い上げた。戻ってきて、彼の前へ差し出す。

「桜井家のクズどもを、私の手で地獄に落とすまで。私の夫は、生きていなきゃ困る。交換条件として――その後で黒崎明信は私が片づける」

黒崎理人は、空になった注射器を見つめたまま、思案する。

昨夜、彼女は確かに、これの中身を“自分”の身体へ押し込んだ。毒だと思っていた。だが目の前の女は黒崎明信の手の者ではない。そして自分は、こうして立っている。

なら答えは一つ。

――あれは毒じゃない。解毒だ。

この女は、本当に自分を助けたのか。

桜井結衣は細い肩で、徹夜のせいか顔色が白い。なのに瞳だけが、凍るほど冷たく光っていた。

餌でも獲物でもない。

網だ。

「……成立だ」

長い間を置き、黒崎理人がようやく吐き出した。

「愛人」などより、「同盟者」のほうがずっと面白い。

この網が、どれだけの魚を絡め取るのか――見てみたくなった。

桜井結衣は注射器を無造作にゴミ箱へ放り戻す。

「じゃあ、黒崎祁。先に言っておく。私たちは同盟。敵じゃない――少なくとも、今は」

翌朝早く。

黒崎理人の書斎には、古い書物の乾いた匂いと、シダーウッドの静かな香りが満ちていた。

桜井結衣はすでに、幅広いマホガニーのデスクの向こうに座っている。最高構成の端末、堅牢なセキュリティ。だが彼女の目には、紙で作った錠前と大差なかった。

指先がキーボードを滑る。激しい打鍵音はない。ただ、一定で鋭いリズムだけ。速すぎて、指の輪郭が曖昧になる。

画面にはコードが洪水みたいに流れ、削られ、組み替わり、やがて海外銀行のログイン画面で止まった。

残高の桁は、桜井家が彼女を「商品」として売り払って得た金。

桜井結衣の呼吸は、一つも乱れない。

誰もが狂いそうな額も、彼女にはただの数字だった。

動きは止まらない。匿名のオフショア法人を立ち上げ、法人情報は、すでに存在しない架空の人物へ飛ばす。

海の向こうで、目立たない小規模な商業物件をいくつか押さえた。将来の拠点にするためだ。

新しい暗号化口座を開設し、資金を細かく分割する。小川が海に溶けるように、複数の金融スキームを十数段かませ、黒崎家と桜井家につながる痕跡を根こそぎ消す。

所要時間、三十分もかからない。

破格の結納金は、彼女が私設の最先端医療ラボを組み立てるための、最初の資金へと姿を変えた。

――完了。

操作ログを消し、デスクトップは何事もなかったように静まり返る。さっきまでの嵐が嘘みたいに。

そのとき、重い書斎の扉が、控えめに叩かれた。

「若奥様。亮二様よりお達しです。正午よりご一緒にお食事とのこと。ご準備を」

執事の声は、どこまでも事務的だった。

「分かりました」

嫁いで初めての、家の席。

桜井結衣は立ち上がり、少し固まった首を回す。窓から差し込む朝の光が瞳に映り、澄んだ冷たさだけが残る。

上等。来るなら来い。

正午。黒崎家本邸、ダイニング。

長いテーブルの上座には黒崎亮二が座っていた。誰の顔も見ないまま、手の中で艶のある胡桃を二つ転がす。だがその目は、卓上の微細な表情を一つも取りこぼさない。

左手にいるのは橘敏恵。

隙のない化粧。それでも口元の張りつめた線が、焦りと苛立ちを漏らしていた。

桜井結衣の席は、当主の右側。黒崎家で「女主人」が座る場所だ。

彼女は静かに背筋を伸ばし、堂々と構える。斜め向かいから突き刺さる、橘敏恵の怨毒な視線など、最初から存在しないかのように。

料理が運ばれ始める。コース仕立ての洋食。銀器が控えめに鳴った。

「……コホン」

橘敏恵がわざとらしく咳払いし、沈黙を割った。

ナプキンで口元を押さえ、軽く視線を投げる。

「桜井さん。田舎では、食事にナイフとフォークは使わなかったの? その持ち方、外に見られたらどう思われるかしら。黒崎家が躾もできない家だって言われるわよ。嫁までまともに教育できない、と」

声量は大きくない。それでも、耳をそばだてている使用人全員に届く、ちょうどいい大きさ。

空気が凍る。使用人たちは一斉に視線を落とし、息づかいさえ薄めた。

だが桜井結衣の顔には、侮辱された色が一片も浮かばない。

「扱いやすい嫁」だと思わせたら、後が面倒になるだけだ。

桜井結衣は橘敏恵の視線に従い、自分の手元を見る。そして丁寧に、ナイフとフォークを置いた。

顔を上げる。挑発を真正面から受け止め、そこに――ちょうどいい程度の申し訳なさを乗せる。

「失礼しました。私、黒崎理人の容体を安定させることに、意識が全部持っていかれていて。そういう細かいところまで気が回っていませんでした」

声は柔らかく、澄んでいる。

「今、彼の命より大事なことって……ありますか?」

たった一言で、非難はきれいに跳ね返り、同時に橘敏恵の薄情さだけが浮き彫りになる。

息子が瀬戸際なのに、気にするのは食卓作法――。

橘敏恵の頬が、みるみる赤くなる。言い返そうにも、何を言っても自分がより意地悪く見えるだけだと分かってしまう。

この……!

沈黙していた黒崎亮二が、胡桃を弄ぶ手を止めた。

世の裏表を見尽くしたその目が、瞬きもせずに桜井結衣を捉える。

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