第7章 忌まわしいときめき、彼はあまりにも美しい

「カツン」

黒崎亮二は手にしていた胡桃をテーブルへ置き、今にも張りつめた顔を崩しそうな橘敏恵へ視線を走らせた。

「桜井結衣の言うとおりだ。いま一番大事なのは理人の身体だ。結衣は黒崎家に嫁いだ以上、黒崎家の人間だ。誰一人、手出しは許さん」

庇っているようでいて橘敏恵への牽制でもあり、同時に広間にいる使用人たちへ向けた規律の宣言でもあった。

――黒崎亮二が、彼女の立場を認めた。

橘敏恵の顔色は、赤から白へ、白から鉄色へと移ろい、結局は当主に逆らう勇気もなく、屈辱を噛み殺して俯くしかない。フォークとナイフを握り直す手は力が入りすぎ、皿を突き破りそうだった。

桜井結衣は睫毛を伏せ、手元のグラスを取って、温い水をひと口だけ含む。

喉を滑り落ちる熱が心地いい。

黒崎家での初戦は、勝った。ほんの入り口にすぎないが――少なくとも彼女は、自分が踏ん張れる足場をひとつ奪い取った。

昼餐は、重い空気のまま散会となった。

桜井結衣が黒崎理人の部屋の扉を押し開けると、黒崎祁がベッドヘッドにもたれていた。骨ばった指先が、「黒崎理人」の焼け爛れた瘢痕の上に、無造作に置かれている。

黒崎理人が用意した“植物状態のふりをする自分”は、すでに完全に通用する。だが今朝は外で用事を片づけてきたらしく、戻りが急で、服を替える暇がなかったのだろう。

「橘敏恵が、昼飯も食べきれずに席を立ったって聞いた」

男の視線が、入ってきた桜井結衣へ真っすぐ刺さる。感情の波は見えない。まるで今日の天気を告げるみたいな口ぶりだった。

「自分から殴られに来たんだから、成仏させてあげただけ」

桜井結衣は近づき、彼の手をどける。ベッド脇のモニターへ目を落とし、数値が正常なのを確かめてから、ようやく小さく息を吐いた。

黒崎理人は喉の奥で低く「ふん」と鳴らし、口元にかすかな弧を刻む。

この女は、いちばん淡々とした声で、いちばん喉に刺さることを言う。

「爺さんが、お前に肩入れしたな」

黒崎理人が立ち上がると、掛け布団がさらりと滑り落ち、引き締まった胸元がわずかに覗いた。

「私にじゃない。自分に肩入れしたのよ」

そこで桜井結衣は、黒崎祁が上半身を何も着ていないことに気づいた。だが彼女の目は澄んでいて、揺れも濁りもない。

「あなたを繋ぎ止めて、各方面を押さえられる孫嫁が必要なの。少なくとも黒崎理人が完全に回復するまで……つまり、あなたが私を必要としなくなるまで、私の席は安泰」

関係を、彼女は最初から透かして見ていた。

黒崎亮二は慈善家ではない。すべて黒崎家の利益から逆算して動く人間だ。今日、彼女を守ったのも、いまの彼女が“使える駒”だからにすぎない。

この世でいちばん強固な繋がりは、掴みどころのない感情じゃない。利害の結び目だ。

賢い相手との会話は、余計な手間がいらない。

黒崎理人はわざと顔を落として桜井結衣へ近づき、手を伸ばして、彼女の唇を自分のそれのすぐ手前――指一本分にも満たない距離へ追い込んだ。次の瞬間、口づけられてもおかしくない。

桜井結衣の鼓動が跳ね上がる。

容貌が、あまりにも整いすぎている。骨格も、皮膚の造形も、ほとんど欠点がない。

けれど男は触れてこない。何も言わず、ただ静かに桜井結衣を見つめるだけだった。

桜井結衣も動けない。視線を逸らし、ベッドに横たわる黒崎理人へと逃がすしかない。

しばらくして、男は彼女の後頭部に置いていた大きな手をふっと離した。眉間に倦みが滲み、何事もなかったように寝室を出ていく。

部屋は再び静まり返った。

桜井結衣はソファに腰を下ろし、仕事用の端末を開く。「ゴッドハンド」のメールボックスに溜まった未処理が、画面いっぱいに並んだ。

世界最高峰の医療機関、名門の巨富たちからの救援依頼。懸賞金はどれも桁外れだ。

彼女は流すように目を通し、無表情で全選択し、既読にして、ゴミ箱へ放り込んだ。

そのとき、テーブルの上で私用のスマホがぶるりと震えた。

見知らぬ番号からのメッセージ。

『結衣』

返信はしない。数秒後、その番号はそのまま発信してきた。

桜井結衣はベッドの黒崎理人を一瞥し、スマホを持ってバルコニーへ出る。通話を繋ぎ、指の動きひとつで録音を開始した。

「もしもし」

「結衣……君か? 俺だ、吉田清春」

向こうの男は意図的に声を落とし、優しくて情の深い“いい声”を作り上げようとしている。

吉田清春。

大学時代の先輩で、学生会長。家は裕福とは言えず、顔立ちは端正で、女子にとっての高嶺の花だった。

田舎から桜井家に引き戻されたばかりで、全身に卑屈さを貼りつけていた頃の桜井結衣も、たしかにその「女子」の一人だった。

勇気を振り絞って手紙を渡したことすらある。

結果は言うまでもない。その手紙は彼の仲間に大勢の前で読み上げられ、笑い声が起きた。

彼は前に出て、礼儀正しく、それでいてきっぱりと距離を取る言い方で場を収めた。

才能は評価しているが、交際は難しい――そう言った。

いま思えば、難しいんじゃない。桜井家の中で愛されない彼女からは利益が取れない、それだけだったのだろう。

現に彼は、奨学金までつぎ込んで桜井美桜を口説いていた。

桜井美桜は、ほんの小遣いを“与える”だけで吉田清春が尻尾を振って三年も付いて回ったと、彼女の前で得意げに語ってみせた。

若いころの自分の目は、驚くほど節穴だった。

「用件は?」

桜井結衣の声は、見知らぬ営業に向けるみたいに冷たい。

電話の向こうで、吉田清春が言葉に詰まった気配がした。想定していなかった反応なのだろう。すぐに立て直し、いかにもな“心配”を滲ませる。

「結衣、聞いたんだ……君、黒崎家の、もう長くない男に嫁いだって。だから電話した。怖がるな。俺がいる。桜井家も心配してる。黒崎家で辛い思いをしてないかって……」

「へえ?」

桜井結衣は軽く笑い、冷えた手すりに背を預け、遠くの景色を眺めた。

「桜井家が心配してるのは私? それとも、換金した金づるがもう揺すれないこと?」

「結衣、どうしてそんなふうに……」

彼の声は、傷ついたふりをする“悲しさ”をまとった。

「悔しい気持ちは分かる。でも自暴自棄になるな。いいか、黒崎家では少しだけ我慢して――それで、黒崎理人が死んだら出てこい。俺が迎えに行く。結衣、俺が娶る。大事にする。本当は俺、ずっと――」

「吉田清春」

桜井結衣が氷みたいに遮った。

「桜井家からいくら貰ったの? 私の前で、そんな吐き気のする台詞を読み上げるために」

電話の向こうが、すとんと無音になった。

桜井結衣の口元の弧が、さらに冷たくなる。

「帰って伝えて。次に芝居を打つなら、もう少し演技の上手い人を寄越せって。あとあなた。勘違い男の薄っぺらい妄想はしまって。あなたは黒崎理人の靴も揃えられない」

そう言い捨て、通話を切る。着信拒否、削除まで一息だった。

胃の奥から、むかつく感覚がこみ上げる。

桜井家が、こんなに早く痺れを切らすとは。

そして吉田清春みたいな安物を寄越して洗脳できると思うほど、愚かだとも。

まだ自分が、昔みたいに好き放題に握り潰せる小娘だとでも?

桜井結衣は画面を見下ろす。新しいメッセージが表示された。

今度は、桜井楓から。

『結衣、楓だ。会って話そう。少し聞いてほしいことがある。いつもの場所、街角のカフェ「タイムライト」で待ってる』

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