第8章 もはや過去の彼女ではない

楓。

あの冷え切った桜井家で、もしも一筋でも――偽物のぬくもりがあったとしたら、それは桜井楓という存在だった。

笑って「結衣」と呼ぶ。桜井美桜にいじめられたときは、当たり障りのない言葉で形だけ庇う。たまに小さなプレゼントも持ってくる。

結衣は一時期、本気で信じていた。

この家で、少なくとも楓だけは自分を妹として見てくれているのだと。

――代わりに嫁げと追い詰められた、あの日。

あの水を飲み下した瞬間に、ようやく分かった。

彼の「優しさ」は全部、利用しやすくするための下ごしらえだったのだと。

桜井結衣はふと、高三の頃を思い出す。

大画家気取りのくせに、ろくに弁護士としても形になっていなかった桜井楓が、ネット投資の詐欺に引っかかって数百万円を溶かした。

卒業制作のための画材――筆と絵の具を買うはずの金だった。

家には言えない。言えば叩き潰される。

だから彼は、当時プログラミングの大会で奨学金として50万を手にしたばかりの結衣のところへ来た。

涙声で縋りつき、誓いまで立てた。

「ちょっと回すだけ。来月には必ず返す」――と。

結衣は信じた。

口座に残っていた生活費の5万まで含め、奨学金の50万と一緒に送金した。

それで終わり。

返済も、説明も、当然のように何もなかった。

結衣はスマホの画面を、コツ、と指先で叩く。

【了解。】

借りた側が黙るなら、貸した側が催促するだけ。

金額の多寡じゃない。桜井結衣のものは、1円たりとも――利息込みで吐き出させる。

――三十分後。カフェ『タイムライト』。

昔の学校から近いこの店は、結衣が学生だった頃、楓が「兄妹の情を深めよう」などと言ってよく呼び出した場所だ。

店名がいい。雰囲気もいい。何より、過去を拾い集める優しい兄を演じるのに都合がいい。

楓は洒落たギフトボックスを抱え、約束より三十分も早く着いて、ラテを頼んでいた。

チリン――。

結衣がドアを押すと、風鈴が澄んだ音を鳴らした。

窓際にいる楓が、すぐ目に入る。

ベージュのカジュアルスーツは仕立てがよく、肩は広く、腰は細い。金縁の眼鏡がまっすぐな鼻梁に乗り、柔らかさと上品さを同時に作っている。

結衣を見つけるなり、楓は立ち上がった。

ちょうどいい甘さの、甘やかすような笑み。

「結衣、来たね。ほら、座って」

結衣は向かいに座る。店員がタイミングよくメニューを差し出したが、結衣は軽く手を振って追い払った。

「用件は?」

愛想も前置きも、いらない。

楓の笑みが、ほんの一瞬だけ固まる。

以前の結衣は、彼の前ではいつも俯きがちで、声にも怯えが滲んでいた。こんなふうに値踏みする目で見返してくる妹に、まだ慣れていない。

「まだ家のことで怒ってるの?」

ため息をつき、身を少し乗り出す。諭すような、もっともらしい顔。

「父さん母さんだって仕方なかったんだ。桜井家の状況は結衣も分かってるだろ。それに黒崎家は大きい。嫁いだほうが、外で浮いてるよりずっといい。俺たちだって結衣のためを思って――」

結衣は黙って見ていた。

年代物の家庭ドラマを眺めている気分だ。

「要点だけ」

楓の頬がひくりと動き、ようやく前置きを諦める。

彼は手元のブリーフケースから書類を取り出して結衣の前へ滑らせ、ギフトボックスも同じように押しやった。

「桜井グループの新しいバイオ医薬プロジェクトだ。かなり有望なんだけど、立ち上げ資金が少し足りない」

咳払い。目の奥の欲が、もう隠れない。

「結衣。黒崎家の結納金だって、女の子が使い切れる額じゃないだろ。半分だけでも会社口座に回してくれないか。出資って形にする。軌道に乗れば、年末の配当だってきちんと――」

結衣が無反応なのを見て、楓はまだ足りないと判断したらしい。さらに言葉を重ねる。

「分かってる。結衣の金が、プロジェクト全体にとって決定打じゃないかもしれない。でも今の結衣は違う。黒崎家の若奥様だ。黒崎亮二さんに少し吹き込むだけでも、あるいは黒崎グループの上の人に話が届くだけでも――向こうが指の隙間からこぼす程度で、こっちは全部回る」

結納金も寄こせ。ついでに顔も使え。投資の口まで開け。

手ぶらで狼の口をこじ開ける気か。

来世でどうぞ。

結衣は聞き終えても、表情は変えない。

「結衣、これは桜井家のためだけじゃない。結衣のためでもあるんだ」

楓は、結衣に見られるほど妙に背中がぞわつくのか、焦れたように促す。

「考えてみろよ。実家が強くなれば、嫁ぎ先でも胸を張れる。だろ? それに、もし黒崎理人が本当に死んだとしても――結衣には帰る場所がいる。ほら、これ」

ギフトボックスを指で叩く。

「結衣が18の誕生日に欲しがってた、スワロフの限定ブレスレット。買ってきた。サインしてくれたら、俺がつけてやる」

そのとき、結衣がようやく動いた。

箱には目もくれない。夢を描いた企画書にも触れない。

小さなショルダーバッグから、あるものを取り出し、そっとテーブルに置いた。

赤い布の、平安御守。

色は洗い晒されて白け、角は毛羽立ち、「平安」の刺繍も滲んでいる。

楓の瞳孔が、きゅっと縮む。

――覚えている。

結衣が成人した年、彼が気まぐれに寺の前を通って、ついでに求めたものだ。渡したときの結衣は宝物みたいに抱えて、嬉しさが目から溢れそうだった。

「18の誕生日の前に、あなたがくれたもの。渡すとき、あのブレスレットの代わりって言ったよね」

結衣の声は軽い。けれど一語一語が、釘みたいに楓の耳へ打ち込まれる。

「返す。元の持ち主に」

それは、偽物の兄妹ごっこの――最後の残り火。

いま、結衣の手で断ち切られ、楓の前に落とされた。

楓の顔色が、一瞬で崩れた。

「桜井結衣……どういうつもりだ?」

結衣は目を上げ、真正面から見据える。澄んだ瞳の奥は、ぞっとするほど冷たい。

「桜井家の連中に伝えて。結納金は、桜井美桜の代わりに私の人生を売らせて手に入れた金でしょ。1円も渡さない」

口元に、薄い嘲り。

「それと、吉田清春みたいな場末の手合いを、二度と寄越さないで。次は桜井グループの株が、突然『技術的な調整』でどうにかなっても――知らない」

結衣は卒業後の実習が始まってから桜井グループで働かされていた。給料も出さず、汚れ仕事も重い仕事も、グレーの領域まで全部押しつけられた。

手元の材料は、整理すれば一撃で致命傷になる。それだけだ。

「……お前、俺を脅す気か?」

楓も分かっている。桜井智也が結衣に何をさせてきたのかを。

それでも信じられない。かつて自分の言うことを聞いていた妹の口から、この言葉が出るなんて。

結衣は少しだけ身を乗り出し、声を落とす。

噛みしめるように、はっきりと。

「そうだよ。――それから、楓。高三のとき、流行りに乗って仮想通貨で大損して、私から借りた55万。いつ返すの?」

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