第9章 いい妹のいい策略、彼女は家法で処罰されるのか?

桜井楓は、全身が凍りついたように固まった。

まさか桜井結衣が、今日、この場で――本人ですら忘れかけていたような、あの古い話を持ち出してくるなんて。

55万。

依頼一本で何十万も取る大弁護士の自分が、今日は妹から「億単位の結納金」を引き出して、何十億の投資話までぶち上げるつもりだった。

それが逆に、人前で借金の取り立てを食らう?

……公開処刑もいいところだ。

桜井結衣は、青ざめたり赤くなったり忙しい彼の顔を眺めているうちに、なぜだか胸のつかえがすっと軽くなるのを感じた。

彼女はゆったり立ち上がり、服の皺を指先で整える。

「現金でも振り込みでもいいよ。あ、そうだ。これだけ年数が経ってるんだし、利息はつけないとね? 銀行の同期間で一番高い利率でいい。私、損させるつもりはないから」

桜井楓は歯を食いしばり、即座にLINEで60万を送金した。何か言い返して体面を保とうとした、その瞬間――。

ピコン。

結衣のスマホに、入金通知。

彼女はもう楓を一瞥もしない。くるりと背を向け、そのまま出て行った。

楓だけが席に縫い付けられたように残され、コーヒーカップを握る手が怒りで小刻みに震える。

洗いすぎて色の褪せたお守りだけが、テーブルの上に静かに横たわっていた。

言葉のない嘲笑みたいに。

車に戻ると、楓は考えれば考えるほど腹が立ち、ハンドルを拳で叩きつけた。

ブゥゥゥゥ――クラクションが耳障りに伸びる。

彼はスマホを掴み、すぐに桜井家の家族グループを開くと、胸の中の火をそのまま文字に叩きつけた。

【桜井楓:@全員 桜井結衣と決裂した】

【桜井楓:@智也 あいつ、名家に嫁いだら自分が偉くなったとでも思ってる。金は一円も出さないどころか、会社の件で俺を脅してきた】

当然、借金を取り立てられて金を払わされた恥は書かない。自分に都合のいい部分だけを選んだ。

投稿された瞬間、グループは一気に荒れた。

【桜井国宏:何だと?! あの逆らい娘が! 調子に乗りやがって! 最初から田舎まで探しに行って連れ戻すんじゃなかった!】

【桐山嵐子:どうして家族にそんなことできるの? 私たち、本当に無駄に育てたわ……恩知らずにも程がある! 楓、大丈夫? あの子、手を出してないでしょうね?】

続いて桜井美桜のアイコンが跳ねた。音声メッセージだ。再生すると、委屈そうで、やけに気遣う声。

【桜井美桜:楓、まず落ち着いて……お姉ちゃん、黒崎家でうまくいってなくて、八つ当たりしちゃったのかも。黒崎家で一人でやっていくのは大変だよね。しかも旦那さんは植物状態だし……私たち家族が、もっと分かってあげないと】

仲裁のふりをして、言葉の端々で「結衣は黒崎家で立場が弱くて心が荒れている」と刷り込む。

楓はただでさえ沸点だった。これを聞いて、さらに火がつく。

【桜井楓:委屈? ふざけるな。あいつは最初から狙ってやってる! わざわざ「タイムライト」に呼んで、手土産まで持って行ったのにだぞ】

カフェ「タイムライト」。

桜井美桜の目が、ぱっと光った。

そこは楓が昔、結衣をよく連れて行った「秘密基地」。美桜が覚えていないはずがない。

しかも今日、家では別の人間――吉田清春を「タイムライト」の近くで待機させていた。拾い物をするために。

結衣が楓を拒んだ。さらに吉田清春の名前まで出た――。

美桜の脳内で、悪意の歯車が一瞬で噛み合った。

美桜は家族グループを抜け、連絡先から「橘のおばさん」と登録した番号を探し当て、発信する。

コールは長く続き、ようやく繋がった先から、橘敏恵の苛立った声が飛んできた。

「誰?」

「橘のおばさん、私、美桜です」

美桜は即座に声色を変える。弱々しく、怯えた調子に。

「ごめんなさい、こんな遅い時間に……でも、ちょっと、言ったほうがいいのか分からなくて……」

その歯切れの悪さが、敏恵の好奇心に火を点ける。

「何よ。用があるならさっさと言いなさい。もったいぶらないで」

「……お姉ちゃんのことで」

美桜は鼻をすする。まるで泣くのを堪えるみたいに。

「楓が今日、お姉ちゃんのこと心配して会いに行ったんです。でも、お姉ちゃん、黒崎家に嫁いだことがよっぽど不満みたいで……すごくひどいことを言って……」

「はぁ?! あの女、何言ったの!」

敏恵の声が跳ね上がる。

「黒崎家がどれだけお金持ちでも権勢があっても、見下してるって……それから……理人さんのことも……」

美桜は、肝心なところで言葉を詰まらせた。声に涙が滲む。

「とにかく、呪いみたいな……私、口に出せません」

電話口の向こうで、敏恵の呼吸が荒くなる。

それを確認してから、美桜は本命を落とした。

「それに……お姉ちゃん、今日の午後は、楓に会いに行ったんじゃないと思います。『タイムライト』のカフェに行ったのは、別の男に会うためで……吉田清春っていう人です。お姉ちゃんの学生時代、すごく仲が良かった先輩で……」

「すごく仲が良かった」を、わざと丁寧に、重たく。

……

黒崎邸。桜井結衣の部屋。

結衣はシャワーを浴びたばかりで、肌に水気の匂いがほのかに残っている。黒崎理人のデスクに座り、国内の複数口座に最高レベルの防御を張っていた。

ついでに楓から振り込まれた60万は、山間部の就学困難な女児を支援する基金へ、きっちり一円残さず寄付する。

次は黒崎家の内部ネットワークから抜き出した医療システムの資料を精査しようとした、そのとき。

バンッ!

扉が外から乱暴に叩き開けられた。

橘敏恵が怒りに顔を歪めて突進してくる。背後には、青ざめた使用人たちが数人。

「桜井結衣!」

金切り声。敏恵は一気に距離を詰め、指が結衣の鼻先に突き刺さりそうになる。

「この恥知らず! 黒崎家が何をしたっていうの! 嫁いでまだ何日よ、外で男を作るなんて!」

結衣はまぶたすら上げない。指先でタッチパッドを軽く叩き、保存。

それからようやく、ゆっくりノートPCを閉じた。

その落ち着きが、敏恵の怒りに油を注ぐ。

「私の話、聞こえないの?! よくもそんな顔で座っていられるわね! あんたたち、この女を押さえなさい!」

敏恵が叫ぶと、使用人たちが慌てて結衣の腕を掴もうとする。

結衣は体をわずかに捻り、軽々と触れさせない。

顔を上げる。澄んだ瞳は波一つなく、息を切らした敏恵を見つめた。まるで出来の悪い一人芝居を鑑賞するみたいに。

「どなたのことですか」

声は大きくない。だが、部屋の隅まで通る明瞭さ。

「どなたって、何人いるつもりよ!」

敏恵は言葉に詰まり、喉をひゅっと鳴らした。

「知らないとでも言うの?! 今日の午後、『タイムライト』! 吉田清春っていう野良男! 会ってないって言い切れる?!」

その二つの単語を聞いた瞬間、結衣の中で霧が晴れた。

これをここまで正確に敏恵へ届けられるのは、桜井家の人間しかいない。

そして、こういう陰口と火付けに一番長けているのは――桜井美桜。

「……ああ、彼ですか」

結衣は小さく頷き、唇の端にごく薄い嘲りを刻む。

「あの人、たいした男じゃないですね」

脈絡のない一言に、敏恵が固まった。

普通なら青くなって言い逃れするはずなのに、この女は、まるで他人の趣味を採点している。

敏恵はすぐ我に返り、さらに声を荒げる。

「認めたのね?! 理人と結婚したばかりで昔の男と密会して! 黒崎家の顔に泥を塗った! 今すぐお義父さんのところへ来なさい。家の決まりで処分してもらうわ!」

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