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じめじめした薄暗い地下室で、新谷結奈は咳き込み、とうとう血まで吐いた。
もう耐えられない。上着を引っかけ、階段を片足を引きずるようにして上り、1階のリビングへ出る。
目に飛び込んできたのは、熱気に満ちた光景だった。色とりどりのリボンと風船。新谷芽衣の二十五歳の誕生日を祝う飾りつけ。結奈の全身が小刻みに震える。
自分は新谷奈津子の養女だ。奈津子が病院から抱いて連れ帰った子――そう聞かされてきた。末期の肺がんで、看病する者は誰もいない。何度電話をかけても新谷家の人間は取り合わず、地下室に放り込んだまま。
それなのに、奈津子は上で芽衣の誕生日を盛大に祝っている。笑い声、拍手、賑やかな音。胸が裂けそうだった。
芽衣が奈津子に甘えるように身を寄せる。
「お母さん、結奈って、私のために骨髄くれるかな? もう癌なんでしょ? 骨髄って使えるの?」
「ドジな子。結奈のは癌じゃないわ」奈津子は宥めるように笑い、芽衣の髪を撫でた。「昔あなたをうちの鉱山に行かせなかったのは、空気が悪いから。結奈はただの肺炎よ。勝手に『癌』だと思い込んでるだけ」
雷に打たれたみたいだった。背筋が凍り、指先まで冷たくなる。
肺炎? 癌じゃなくて、肺炎?
肺炎なら病院で点滴を打てば治る。なのに奈津子は「末期だから治らない」と嘘をつき、「抗がん剤は苦しいから家で治そう」と優しく言った。全部、騙すために。
鉱山へ行けと言ったのも奈津子だった。「あなたならできる」と。――本当は、空気の悪い場所に芽衣を行かせたくなかっただけ。
あのとき自分が鉱山に行かなければ、新谷家はとっくに潰れていた。制度を改め、生産方法を変え、倒産寸前の鉱山を立て直した。そのおかげで新谷家は一戸建てから、敷地二千平方の大邸宅へ移ったのだ。
小さいころから、自分が養子だと分かっていた。だから顔色を読むことばかり覚えた。十歳のとき重い病気になり、奈津子は輸血して命を救ってくれた。恩を返したかった。だから奈津子が望むことなら何でも従った。
鉱山で働けと言われれば働いた。3階の主寝室から地下室へ移れと言われれば移った。芽衣が問題を起こせば自分が身代わりになり、後始末も引き受けた。
そのたびに、なぜか達成感すらあった。ようやくこの家の役に立てた、恩返しができた――そう思い込んでいた。
けれど今、分かった。
治療もしないで、肺がんだと騙し、地下室で弱らせたのは――芽衣に骨髄を移植させるため。
芽衣が当然のように言う。
「ねえお母さん、いつ死ぬの? もう待ちたくない」
「もう少しよ。あの地下室に住ませてれば、すぐ重病になって死にかけるわ。そうしたら適合検査できる」奈津子は額を寄せ、娘を愛おしそうに見つめた。
胸の奥を鋭い痛みが貫き、結奈は激しく咳き込んだ。音が大きすぎた。
奈津子母娘の視線が階段へ向く。ぼさぼさの髪、やつれた顔の結奈がそこにいた。
視界が暗転し、体が言うことをきかない。結奈は後ろへ倒れ、床に重く打ちつけられた。うつ伏せのまま息が細くなり、最後の力で手を伸ばす。
「お母さん……助けて……苦しい……」
「びっくりした!」芽衣は胸を押さえ、奈津子の手にすがる。
奈津子は冷ややかに一瞥した。
「誰が上がってこいって言ったの。そんなに重病なら、うつされたらどうするの」
そう言うと鼻を押さえ、嫌悪感を隠さず数歩下がった。
芽衣が腕を絡め、甘ったるい声を出す。
「お母さん、放っておきなよ。死んだフリでしょ。私の誕生日に水差すなんて最悪。縁起悪い」
「平気よ。死んだ方がいいわ。そしたらすぐ骨髄を替えられる」奈津子は日常茶飯事といった調子で言い、結奈を見下ろした。
心臓が針で刺されたように痛む。結奈は必死に身を起こし、手すりにしがみついて立ち上がった。荒い息のままスマホを取り出し、119へかけようとする。
芽衣が青ざめる。
「お母さん! 警察に通報するつもりじゃ……!」
「通報させるわけないでしょ」奈津子は近づき、手を振り払うようにスマホを叩き落とした。「新谷結奈。大人しくここにいなさい。家の恥を外に出すんじゃない」
「助けて……」結奈は弱々しく奈津子の手首にしがみつく。せめて命だけは。
だが奈津子は情け容赦なく腕を振りほどいた。
足元がふっと空になる。
結奈の体は階段から転げ落ち、何度も頭をぶつけ、地下室の曲がり角で止まった。
視界が滲む。後頭部がずきずきと痛み、温かいものが流れ出す。上から聞こえてきたのは、奈津子が芽衣に歌う「ハッピーバースデー」。
耳障りで、吐き気がした。
今度は奈津子は助けてくれない。自分は死にかけているのに、芽衣は誕生日を祝われている。
十八歳以降、新谷家は一度も自分の誕生日を祝ってくれなかった。同じ屋根の下にいても、向けられる視線は冷たかった。
奈津子が使用人に命じる。
「誰か! あれを運び出しなさい! 目障りよ!」
芽衣が嘲るように笑った。
「結奈、お母さんが前みたいに助けると思った? 十年前に助けたのはね、あなたの治療に300万円出す人がいたからだよ」
奈津子も平然と続ける。
「残念ね、その人は五年前に死んだ。あなたにはもう利用価値がない……ああ、骨髄だけは別。新谷家への最後の恩返しだと思いなさい」
結奈の胸の奥で、最後のぬくもりがぷつりと消えた。残ったのは骨まで凍る寒さと、燃え上がる憎しみだけ。
目を閉じる。
――新谷家の「優しさ」は、全部嘘だった。誰かが影で支えていただけ。
もし来世があるなら、二度と新谷家のために鉱山を立て直したり、会社を救ったりしない。
……
パァン——
乾いた平手打ちが頬を叩きつけ、ひりつく痛みが一気に広がった。
結奈ははっと目を開き――目の前にはブランド店のVIPルーム。
不思議なことに、肺が詰まるような苦しさはない。代わりに頬の痛みだけがやけに鮮明だった。
「結奈! この泥棒! 芽衣に身代わりさせるなんて!」
耳慣れた声。振り向けば、奈津子の意地の悪い顔がある。
全身が震える。脳裏に焼き付いているのは、あの女が自分を階段から突き落とした光景。
隣で芽衣が善人ぶった口調で言った。
「お母さん、お姉ちゃんもわざとじゃないよ。あのブレスレットが欲しかっただけでしょ? 200万だし、私が払う。買い取れば刑務所に入らなくて済むよ」
結奈が顔を上げると、カウンターの万年暦は2020年。
五年前――生き返った。
思い出す。大学一年のときだ。芽衣には盗み癖があった。高級店でブレスレットを盗み、警察に捕まった。身代わりにしようとしてきた。
あのときの自分は、奈津子の「命の恩」に縋って、受け入れてしまった。
その日から自分の立場は地に落ち、地下室へ追いやられた。
「何睨んでるの! 今すぐ立ちなさい、警察署へ行って謝りなさい!」奈津子は結奈を乱暴に引き起こす。
結奈は息を整え、スマホを取り出した。
「謝るのはいい。でも――これ、警察に提出する」
そう言って録音を再生する。
「お姉ちゃん、お願い……! お母さんに盗んだってバレたら殺される……」
