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新谷芽衣がにじり寄って、新谷結奈の腕にしがみついた。作り笑いを貼りつけたまま、甘ったるく探る。
「お姉ちゃん、南の郊外の別荘、何に使うの? さっきだってお母さんに100万ちょうだいって言ったばかりでしょ。……何か困ってるの?」
「結奈、さっきの100万もね、芽衣が出すって言わなきゃ、私は絶対に払わなかった。いい加減、図に乗るんじゃないわ」
新谷奈津子は、結奈の青ざめた顔を睨みつけた。
結奈はもともと聞き分けがよく、こちらに金をせびるような真似は一度もない。たった半日で300万を吐き出させるなんて、どう考えても不自然だった。
新谷結奈は鼻で笑う。
「図に乗る? お母さん。100万なんて芽衣の1か月の小遣いでしょ。あなたにとって大金?」
嘲るように肩をすくめる。
「南の郊外のあの家だって、たいした額じゃない。芽衣のランボルギーニより安いくらい」
結奈は奈津子を真っ直ぐ見た。
「警察が私を疑ったのも当然ね。貧乏くさく見えたんでしょ」
南の郊外の家が欲しい。新谷家を出るための拠点として、あそこほど都合のいい場所はない。さっきの100万だって、焼け石に水だ。
まもなく馬術選手権大会が始まる。愛馬の神楽に必要な栄養補助を、揃えなければならない。
前世の神楽は、A大学の馬術選手権でも、K市の大会でも優勝した。けれどライオラ国際選手権では体調を崩し、結果を落とした。
競技馬が体調不良で失敗すれば、「価値がない」と切り捨てられる。安楽死だって珍しくない。本来ならオーナーの同意が要るはずなのに――神楽は、誰かの手で勝手に安楽死の手続きが回されていた。最後の姿すら、見せてもらえなかった。
今度は守る。絶対に。
玄関のほうで警察の気配が近づくのが見えたのだろう。新谷奈津子は、いったん声色を柔らげた。
「別に、出し渋ってるわけじゃないの。困ってるなら言いなさい。お兄ちゃんたちに相談したっていい。私たちが助けるわ」
――まずは宥める。警察が帰ったら、締め上げればいい。
新谷結奈は感情を落として答える。
「大会が近いの。南の郊外は馬場に近いから、そこに住む」
「お姉ちゃん、馬術大会って危ないよ。出ないで」新谷芽衣が結奈の手首を掴んで揺らす。「芽衣が代わりに出る。だって私、鉱山のことなんて手伝わなくてもいいし」
新谷結奈は笑った。瞳は氷みたいに冷たい。
「鉱山の家業は、あなたがやりなよ。馬術大会、今出場資格があるのは私だけ。今から練習すれば、来年なら出られるかもね」
この大会は、ただの勝負じゃない。勝ち上がれば国際大会への道が開け、そこで手に入るのは人脈と資金、そして世界のトップ企業との協業の切符だ。
上流の子息令嬢が喉から手が出るほど欲しがる舞台。最後まで残った者が、名門の「顔」になる。
前世の自分は新谷家のために、半年かけて仕上げた。落馬を繰り返し、肋骨だって折った。最高級の付き添いはつけられたが、新谷奈津子が病院に顔を出したのは、たった一度。
それでも当時は、「気にかけてくれている」と思い込んだ。最上の世話を用意したのも、結局は勝たせて利用するためだったのに。
――今回は違う。機会は、自分のものだ。
新谷芽衣は出場権を取れず、唇を尖らせて奈津子を見る。
「お母さん……」
腹の底では、結奈への憎しみが煮えたぎっている。養女のくせに優秀で、学校のコンテストは総なめ。記者も名門の奥様連中も、結奈ばかりを持ち上げる。
自分こそが新谷家の実の娘なのに。視線も称賛も、全部自分に向くべきなのに。
新谷奈津子は結奈の鼻先を指差した。
「出場権は芽衣に譲りなさい! 嫌なら、今すぐその100万、返してもらうわよ!」
新谷結奈は答えない。ただ、凍えるような目で見返した。
前世も芽衣は出場権を欲しがった。けれど練習中、馬のいななきに驚いて「無理!」と泣き出し、結局投げ出した。自分の時間だけが無駄に削れた。
奈津子は初めて、その視線にぞくりとしたのか、歯ぎしりするように言った。
「誰か! お嬢様を書斎へ連れていきなさい! 家訓を100回写すまで出すな!」
閉じ込めてしまえば、今日の警察もこれ以上こじれない。明日の芽衣の誕生日会も、何事もなく進む。宴が終われば、この子の角も削れる――そう踏んでいる。
新谷芽衣は善人ぶった声を出す。
「お姉ちゃん、お母さんに謝ろ? 書斎、すっごく寒いよ。30分でも風邪ひいちゃう」
「南の郊外の別荘をくれないなら、出場権は譲らない」
新谷結奈は新谷奈津子だけを見つめた。
仮にもらっても、譲らないけど。
新谷奈津子は腰に手を当てて吐き捨てる。
「今すぐ閉じ込めろ! 私の許可なしに、誰も飯を出すんじゃない!」
男のボディーガードが二人、ずかずか近づいた。片方が結奈を担ぎ上げ、裏庭へ向かって大股で進む。
裏庭の離れ、2階の書斎。
乱暴に放り込まれ、鍵がかかる。扉の外には左右に一人ずつ、見張りが立った。
新谷結奈は尻をさすりながら立ち上がる。
書斎は骨身に染みるほど冷え、昼でも灯りが要る。前世はここで何度も家訓を写させられた。少しでも早く許してほしくて、馬鹿みたいに真面目に書き続けた。
けれど今回は違う。
棚の本を引き抜き、床に敷いて雑な寝床にする。
新谷結奈は待っていた。
明日の夜は芽衣の誕生日会。客が大勢来る。養女が書斎に閉じ込められ、飲まず食わずだと知れば――誰だって新谷奈津子の本性に気づく。
新谷芽衣の誕生日当日、夜7時。
新谷家の屋敷は客で溢れ、芽衣はピンクのふわふわしたドレスで得意げに歩き回っていた。
離れ2階の書斎にも、宴のざわめきが届く。笑い声、グラスの触れ合う音、楽しげな会話。
扉を見れば、見張りは消えている。玄関の迎えに回されたのだろう。
時間を見計らい、ベランダへ出た。そっと窓を開け、周囲を確かめる。――誰もいない。
適当に写した家訓の紙を数枚、服の内側へ挟む。髪をぐしゃぐしゃに乱し、指先で床の埃をすくい、頬へ塗りつけた。弱々しく、疲れ果てたように。
準備を終え、新谷結奈は息を吸い込む。
鉄柵をまたぎ、柱を伝うようにして降りていく。
半ばまで下りたところで、手が滑った。
身体が落ちる――はずだった。
ぐっと強い腕が抱き留めた。硬い胸板。
ふわり、と淡いパピルスの香りが鼻をくすぐり、全身を包み込む。
新谷結奈が顔を上げる。
吸い込まれそうな深い瞳と、視線がぶつかった。
藤井翼。
前世で若くして亡くなった、財界の頂に立つ男。
