第2章
早朝。
ケインはまだ眠っていた。体勢はやけに硬く、いつでも跳ね起きて危険に備えられるような寝方だ。きっと、安心して目を閉じられたのは久しぶりだったのだろう。
私は音を立てないように起き上がり、フロントへ残金の精算しに向かった。
手続きを担当したのは年老いたレオパード族の執事だった。領収書の「闘技場で淘汰された者」という文字に目を落とすと、彼は小さく息を吐く。
「こういう奴隷を買うのは初めてですか。ひとつ忠告しておきましょう。期待しすぎないほうがいい。闘技場上がりは、心も体も深く傷んでいる。躾けるのは難しいですよ」
「国も毎年何度か違法産業を摘発して、救い出した異族を『無料で引き取り可』として出すんですが……ほとんど引き取り手がつきません」執事は首を振った。「狼人、熊人、豹人、それに下位の魔獣まで。結局は一括で処分される」
「もう、完全に仕組みになってるんですね」
「ええ。誘拐して、仕込んで、戦わせて、淘汰する。延々と繰り返しです。あなたが彼を買ったのは命拾いさせたようなものですが……」執事は言葉を切り、目を細めた。「用心なさい。噛まれないように」
部屋へ戻ると、ケインはもう目を覚ましていた。
彼はベッドの端に硬い背筋のまま腰掛け、私が入ってきたのを見てようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「……さっきの話、聞こえた」低い声。
私は一瞬、言葉に詰まる。
「後悔……した?」尻尾がきつく股の間に巻き込まれている。「捨てるなら、あの執事がひとりで品物を数えてる隙に、金を奪い返せる。……そのまま消える。迷惑はかけない」
私は彼の前にしゃがみ込んだ。
「後悔してない。あなたが言うことを聞くなら」
「私ひとりの言うことだけ」
ケインの獣瞳が大きく震えた。尻尾が少しずつほどけ、伏せていた耳も、恐る恐る立ち上がる。
「……はい」かすれた返事には、肩の荷が下りたような震えが混じっていた。
私は耳に触れようとして手を伸ばす。彼の耳は反射的に後ろへ引けたが、すぐにゆっくりと力が抜けていく。
「……すみません。癖で」ケインはわずかに俯いた。「触っていい……です。まだ触りたいなら」
私は彼の隣に腰を下ろし、指先でそっと耳を揉んだ。耳には浅い傷跡がいくつも走り、触れると少しざらつく。ケインの呼吸は次第に重くなり、体温もじわじわと上がっていく。獣瞳の目尻が赤く染まり、瞬きもせず私を見つめていた。
「昨夜……」言いかけて、少し間を置く。「大丈夫だった?」
ケインはきょとんとしたあと、顔が一気に赤くなる。
「ご……ご主人様は……その……?」
「うん」
「……もっと気をつけます」震える声。「もう……痛くさせない……」
魔法医療所は城東の富裕層地区にあった。
治療師はエルフ族の女性で、冷静で手際がいい。ケインの傷を診るうちに、彼女の眉間の皺は深くなっていった。
「治癒力は確かに優秀。鞭痕も火傷も勝手に塞がっていく。でも栄養失調と魔力枯渇がかなり重いわ。上位回復薬を長期で飲ませる必要がある」
彼女は清書されたリストを差し出した。
値段を一目見て、私は内心で頷く。一通りで800金貨。ケインの値段より300金貨以上高い。
大したことはない。
トリスタンに買ってやった火晶石は一つで3000金貨した。しかもあれは毎月の消耗品の一部にすぎない。この程度、彼にとっては端金にもならない。
「……いらない」ケインが唐突に口を挟み、私の手の甲を強く掴んだ。「何でも食って生きていける。こんなの……無駄遣いだ。死なない」
言い方は驚くほど淡々としていて、事実を述べているだけだった。
彼の世界では、「死なない」だけで最大の恩恵なのだろう。
「平気」私は彼の頭を撫でる。「払えるから」
治療師は薬剤の準備をしながら、ふと思い出したように聞いた。
「この子、闘技場出身? 傷の付き方が……何度も生死のやり取りをしたはず」
ケインは少し沈黙してから答える。
「……そう」
「だから回復が早いのね」治療師は銀色の薬瓶を差し出し、ふと眉をひそめた。「でも腕の咬み跡が妙……戦闘で付いた感じじゃない」
ケインの体が、びくりと固まった。
「まさか自分で咬んだの? 闘技士は痛みや恐怖で自傷することがあるけど……」
「違う」ケインは低く言った。「昨夜……」
一瞬だけ私を見上げ、すぐに視線を落とす。
「……昨夜、咬まれた」
「昨夜? 昨夜も闘技場に?」
「違う」さらに声が小さくなる。「……ご主人様に……」
治療師は一拍遅れて理解したらしく、わずかに気まずそうな顔をした。私をちらりと見て、それ以上は何も言わず、別の薬の準備に回る。
私はその場に立ったまま、どうにも居心地が悪かった。
公爵邸に戻った頃には、もう深夜だった。
屋敷はしんと静まり返り、玄関ホールの魔法ランプだけが冷たい白光を落としている。両親も使用人も寝ている。トリスタンも、おそらくはエヴァンジェリンの部屋だろう。
ケインは私の一歩後ろを、恐る恐るついてくる。この豪奢な邸宅に足を踏み入れた途端、彼の視線がホールの床に落ちた。そこには真っ赤な羽根が数本、散らばっている。
「トリスタンのよ」私は羽根を一本拾い上げた。「あいつ、羽根をあちこちに落としていくの」
トリスタンは、両親が私に与えた「帰還の贈り物」だった。二十年ものあいだ、私を取り落としていた償いとして。
私は六歳で迷子になり、見つかったのは二十六歳。ようやくこの家に戻ったとき、両親がすでに教会から女の子を引き取っていたことを知った。エヴァンジェリン。今は二十二歳。この家で二十年まるごと愛されて育った子。
そして私が戻った日、彼女の世界は崩れた。
養子だという事実を受け止めきれず、手に届くものを片っ端から私に投げつけた。花瓶、書物、果ては父の最も大切にしている魔法の杖まで。
「私がお父さまとお母さまの娘なの! なんで来るの、私からお父さまとお母さまを奪うつもり!?」
「薄汚い乞食! 公爵邸から出ていけ!」
