第1章

「出ていけ!」

 濃密な黒豹のフェロモンが、天幕の中をねっとりと塗り潰す。

 ケールが低く唸った瞬間、巨体の圧が私の胸を抉るように叩きつけられた。

 どさり、と毛足の長い絨毯に転がる。肩に走った激痛。鋭い爪で裂かれた皮膚から、じわりと血が滲み出し、温度を失いながら流れ落ちた。

 顔を上げると、発情期に呑まれて真っ赤に染まったケールの眼とぶつかる。

「その哀れっぽい目で俺を見るな、エーリア」ケールは歯を食いしばったまま吐き捨てる。

「発情期の隙を狙って俺のベッドに潜り込めば、伴侶になれるとでも思ったか? 血筋だけは立派で、中身は空っぽの馬鹿が。お前みたいなのが俺の子を産む資格なんてない。失せろ」

 痛みと屈辱が絡みつき、胸の奥が焼ける。

 それでも――今度は、涙は一滴も出なかった。

 私は、死んで、戻ってきた。

 前世の今日。ケールは成獣になってから最も危険な発情期を迎えた。越えられなければ、獣核は内側から炎に焼かれ、生殖の力を永久に失う。そこを狙うのが、同じ父を持つ異母弟レオンだ。いつでもそれを口実に、獣王の座を奪う腹づもりだった。

 獅子族でもっとも高貴な王女であり、幼い頃から婚約を交わしてきた幼なじみの私――私は何もかも投げ捨てて、彼の傍に残った。

 あの夜、理性を失った黒豹に翻弄され、私は朽ち木のように転がされた。

 そして望みどおり、彼の子を宿した。

 だが、妊娠を知って浮かれていたその日に――ウィラー。か弱い神官。ケールが心のいちばん奥に置き、届かぬ花のように崇めていた女が、荷をまとめて群れを去った。

 置いていったのは、一通の手紙だけ。

 ケールには後継ができた。だからもう、自分の付き添いは必要ない――そう書かれていた。

 数日後、国境から凶報が届く。ウィラーが毒蛇に噛まれ、治療も叶わず死亡。

 その瞬間、ケールは壊れた。

 私の部屋へ踏み込み、巨大な黒豹へと変じた彼が、牙で私の喉を貫いた時の絶望――思い出すだけで息が詰まる。血が噴き上がり、懇願の言葉すら間に合わないまま、私は群れの下位獣へ投げ与えられた。

 骨が噛み砕かれる音が、前世の私が聞いた最後の音。

 そしてウィラー――その「死者」は、どこかの暗がりに身を潜め、私の惨状を愉しんでいた。

 記憶はそこで、ぶつりと途切れた。喉の奥に、吐き気を催す鉄の味がせり上がる。

 俯くと、自分の両手が震えているのが見えた。私は喉の奥で、低く笑った。笑いというより、冷えた反吐に近い。

 手の甲で口端の血を拭い、そのまま立ち上がる。苦しげに喘ぐケールには、一瞥もくれない。

 体内の奥底で眠っていた、獅子の荒ぶる力を呼び起こす。

「ォオオオオ――!」

 天幕を震わせるほどの、鋭い獅子の咆哮。獅子王家にのみ許された呼び声であり、同時に――ウィラーへの合図だ。

 私は背を向け、幕を跳ね上げる。

 夜風が頬を打った。まとわりつく黒豹の匂いを、容赦なく散らしていく。

 天幕からさほど離れない、焚き火の陰。

 そこに、ちょうど駆けつけてきたウィラーがいた。

 白いドレス。月光に濡れた銀の長髪。私の肩の血と、乱れた衣服を見た瞬間、彼女の唇がゆるく弧を描く。

 周囲をさっと見回し、護衛がいないと確かめると、声を潜めて嘲った。

「まあ。高貴なエーリア王女じゃない。どうしたの? 自分から差し出したのに、ケール首領に追い出されちゃったの? 言ったでしょう、ケールにとってあなたの高貴な獅子の血なんて、何の価値もないって」

 一歩、近づく。

「本当のところ、あなたは彼の中じゃ――反吐が出るほど嫌われて、唾を吐かれるような役立たずよ。ケールが愛してるのは私。あなたは最初から、余計者の笑い話でしかないの」

 その偽りだらけの顔を見た途端、前世で引き裂かれ、喰われた痛みが、神経の隅々までぶり返す。

 躊躇はなかった。

 私の瞳孔は一瞬で細く立ち上がり、金の獣瞳へと変わる。

「――っ!」

 音を立てる暇すら与えない。

 ウィラーは悲鳴も出せず、私に押し倒され、地面へ叩きつけられた。片膝で胸を押さえ込み、右手で喉をがっちりと掴む。鋭い爪が、皮膚をすっと裂いた。

「は……な……して……」

 ウィラーは目を見開き、ようやく瞳に恐怖が滲む。必死に身をよじるが、私の力はびくともしない。

 顔を近づける。金の瞳で、冷え切ったまま見下ろした。

 あと半寸力を込めれば、気管など簡単に潰せる。殺す――それは、あまりにも容易い。

 けれど私は、そこで止めた。

 前世の恨みを、こんな手っ取り早い終わらせ方で済ませるなんて――安すぎる。なにより、こんな塵屑のために、生まれ直した一日目を汚したくなかった。

 私はゆっくりと指を離し、立ち上がる。

「よく聞け、ウィラー」

「中で発情してるあのゴミ、欲しいなら好きに拾えばいい。でも――自分の口は、ちゃんと躾けておけ」

 蔑むように一瞥する。

「今のお前は、私に話しかける資格すらない」

 それだけ告げて、私はウィラーの呆然とした目と、遅れて湧き上がる怨毒の視線を背に、振り返らない。

 未練なく踵を返し、夜の奥へと大股で溶け込んだ。

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