第2章

 ケールの野営地を離れると、私は足を速め、獅子族が治める「太陽王座」の領域へ向かった。

 さっき、発情期の黒豹に近づきすぎた。あの侵略的な――頂点に立つアルファのフェロモンが、私の身体の奥に眠る本能を根こそぎ引きずり出してくる。血統の濁りひとつない雌獅子である私の身体は、否応なく発情へと押し込まれていった。

 筋肉が勝手に痙攣しはじめる。黄金の獅毛が皮膚の下でうごめき、表皮を突き破ろうとしているのがわかった。唇を噛み切り、痛みでかろうじて意識を繋ぎ止めたまま、私は医務室へ駆け込んだ。

 冷凍保管庫を掻き回し、幽青の高位抑制剤を一本、鷲掴みにする。

 副作用がどれほど凄惨か、知らないわけがない。高位獣化人の発情衝動を強引に断ち切る代わりに、獣核の活動を完全に凍結させる薬だ。これを入れれば、丸三年――私は自分の白金の獅王形態を一度たりとも顕現できない。力こそが正義の獣世連盟において、獣化できない者は半人前も同然だった。

 だが、ケールという屑と完全に縁を切れるなら、三年など安い。

 迷いはなかった。注射器を静脈へ突き立てる。骨の髄まで刺すような激痛が走り、やがて灼ける熱がすうっと引いていった。私は力が抜けたまま、氷のように冷たい実験台へ背を預ける。体内で獣核が、深い沈黙へ沈んでいくのを感じながら。

 ――自由だ。

 予想どおり、私の鎮静がなくなったケールは完全に暴走した。

 翌朝、耳を裂く警報が「王冠要塞」全域に響き渡った。

 ニュースの見出しも連盟ブリーフも、黒豹の首領が制御を失った話ばかりだ。狂暴の底へ堕ちたケールは、近づいて「手助け」しようとしたウィラーの腕を半分ちぎり取り、巨躯の黒豹へと変じて王都中央広場の半分を破壊した。最後は連盟の鎮圧隊が高圧電網で無理やり押さえつけるまで止まらなかったという。

 その日の午後、獣世連盟最高評議会の長老たちは激怒し、私は緊急招集で連盟大厦の穹頂巨室へ呼び出された。

「ペーン!」

 連盟首席長老ソーエンが重い金属の権杖を床へ叩きつけ、怒りに震える指で私を指す。

「エーリア! 貴様は獅子族で最も高貴なる姫君だろう! 見殺しにする気か! ケール首領の獣核は崩壊寸前だ。鎮められるのは獅子王家の血を引くお前だけ――今、奴にはお前が必要なのだ!」

 私は広間の中央に立ったまま、眉ひとつ動かさない。

「申し訳ありません、ソーエン長老」

 袖口を整えながら言う。

「私は体調を崩しており、重度の過敏期に入っています。発情期の雄性に近づけば、私自身の獣核が崩れる恐れがあります」

「き、貴様……!」

 長老たちは顔を見合わせ、怒りで身体を震わせた。

 そのとき、扉が押し開かれる。ケールが医療兵二名に支えられ、よろめきながら入ってきた。顔色は紙のように白く、濃色のシャツには乾いた血が斑にこびりついている。

 彼の視線が群衆を越え、一直線に私へ刺さった。私の周囲にあったはずの温かく強い霊力の波が消え失せ、フェロモンの匂いすら一片もないと気づいた瞬間、彼の目に驚愕と複雑な色が走る。

「エーリア……」

 探るような、不信の声音。

「どうした。お前の力は……どこへ消えた?」

 私は、あたかも深情けを装うその視線を正面から受け取らない。長老席へ軽く一礼だけを置き、踵を返すと、振り向きもせず扉の外へ出た。

 獅子族の屋敷へ戻るなり、大長老カリンが待っていたかのように私を密室へ呼びつけた。

 普段は慈父然としている叔父は、今は水でも滴りそうなほど陰鬱な顔をしている。

「正気か、エーリア?!」

「重度隔離抑制剤を飲んだだと? 連盟が今どれほど、黒豹一族との結びつきを必要としていると思っている。権力の版図を固めるためにだ! あんな自分の未来を焼き捨てる薬は、責任から逃げる行為だ!」

 私は冷たく見返した。

「大長老。私の婚姻も、私の身体も、私が決めます」

「戯言を!」

 カリンが机を叩く。

「お前は獅子族の高貴なる姫だ。家の資源を享受してきた。危機の時にこそ、家の利益のために政略結婚し、身を削るべきだ。それが宿命だ!」

「私は、誰のためにも自分を差し出す義務はありません。たとえ『家の利益』とやらのためでも」

「自分勝手だ!」

 カリン長老は指を突きつけ、声を荒げた。

「族の未来のために、個人の感情が少し傷つくくらい何だ。見ろ、ウィラーを。卑しい狼族の祭司であろうと、命の危険を冒してケールの発情を鎮めに行った! それに比べてお前はどうだ。家に籠もって抑制剤に逃げているだけじゃないか!」

 その言葉を聞き、胸の奥で嗤いがこみ上げた。

 なんと立派な『大局』だろう。前世の私は、家の栄光だの連盟の大義だのといった甘い言葉に頭を縛られ、喜んで全てを捧げた。結果はどうだ。孕んだ私を手のひらで持ち上げていたはずのケールが冷たくなったとき、家の誰ひとり私の味方をしなかった。獣に引き裂かれ喰い尽くされて死んだとき、彼らが思ったのはただひとつ――獣王の心を繋ぎ止められなかった、役立たずだ、と。

 彼らの目に映る私は、誇り高い姫ではない。命を供物にしても、返ってくるのはケールの口から吐かれる「愚か者」という嘲りと、家が私に貼りつけた「繁殖の器」という札だけ。

「大長老がウィラーをそんなに偉いと言うなら、彼女を獅子族の娘に迎えればいい。ケールと結婚させればいいでしょう」

 そう言い捨て、私は背を向けて部屋を出た。

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