第3章

 私がドアノブに手をかけた、その瞬間だった。背後から、毒蛇みたいに絡みつく声が響く。

「止まりなさい、エーリア。これは『中枢長老会』の最終決議よ」

 足を止め、振り返る。

「ケール首領は発情期の暴走で根を深く傷つけた。獣核に亀裂が入っている」カリンは私を射抜くように見据えた。

「今、あの傷を完全に修復できるのは、獅子族王家だけが持つ『聖光の力』だけ。長老会は決めた。お前が聖光の獣核を差し出して彼を救い、それで同盟への忠誠を証明するなら……家として例外を認める。もう、お前に彼との番いを強制しない」

 息が、ひゅっと喉に引っかかった。

 獣核を……差し出す?

 獣核は、高位の獣人にとって生命そのもの。力の礎だ。

 それを失えば、隔離薬剤を打ったせいで突きつけられていた「三年の猶予」すら意味を失う。

 二度と完全獣化できない。風邪ひとつで簡単に倒れる、半端者として生きるしかない。――それが、私の生まれた家のやり方か。何度も私を傷つけた男に媚びるため、私の最後の一滴まで搾り取るつもりなんだ。

「拒否するなら……」沈黙を恐れだと勘違いしたのか、カリンが畳みかける。

「獅王の姓は剥奪。お前は同盟への反逆者と見なされ、一族から追放される。二度と『太陽王座』の敷居を跨げない――永遠にね!」

 拳を握りしめる。爪が掌に深く食い込み、痛みがじわりと広がった。

 前世の光景が、唐突に脳裏へ浮かぶ。私は死んだあと、ろくに形の残った遺体すら残せなかった。

 今世も、この呪われた身分を守るために、また奈落へ落ちろというなら――そんな高貴な血統、こっちから捨ててやる。

 息を吸い、肺の濁りをすべて吐き切る。

 私は左胸に手を伸ばし、獅子族王家の最上位継承者を示す黄金の獅子のブローチを乱暴に引きちぎった。ちん、と澄んだ音がして、長机の上に跳ねる。

「なら、カリン長老。望みどおりだ」

 目を見開いたカリンの瞳を真正面から射抜き、言葉を一つずつ刻む。

「私は獅子族を出る」

【ケール視点】

 特別病室には消毒液の匂いが漂い、その奥に、かすかな血の生臭さが混じっていた。

 俺はベッドの前に立ち、ウィラーの紙みたいに青白い顔と、厳重に包帯を巻かれた右腕を見下ろす。胸の奥を、強い罪悪感が締めつけた。

 昨日の俺は、完全に理性を失っていた。彼女が危険を承知で狼族の鎮静術を使い、俺の怒りを抑えようとしてくれなければ……王都の半分が灰になっていてもおかしくない。

「誓うよ、ウィラー」

 身をかがめ、傷のない左手をそっと握る。声を落として言った。

「君がしてくれたこと、全部に責任を取る。片づけるべきことが終わったら、この秋に俺たちは夫婦になる」

 ウィラーは弱々しく目を開き、胸が裂けそうなほど優しい笑みを浮かべた。

「行って、ケール。待ってる」

 病院の正面を出ると、夜の冷たい風が頬を刺し、頭が少し冴えた。ウィラーを迎える前に、俺はまず『太陽王座』へ行かなくちゃならない。エーリアという女と、遺伝子婚姻を完全に解消するために。

 エーリアを思い出しただけで、苛立ちが込み上げ、眉間を揉みつぶす。

 黒豹族と獅子族は同盟屈指の双核戦力だ。そんな婚約を片側だけの都合で破棄するなんて、簡単な話じゃない。

 それに、あの救いようのない「恋に溺れた女」は、子どもの頃からずっと俺にまとわりついてきた。視界の端にいないと気が済まないみたいに。王女の矜持だって捨てるし、平気で馬鹿げたこともする。今回、婚約を解消すると言ったら、きっと狂ったように泣き喚いて死を盾にし、王都をひっくり返すに違いない。

 ……なのに妙だ。

「エーリアから完全に解放される」そう考えが形になった途端、理由のない空虚さが、胸のどこかに生まれた。

「くそ……発情期の暴走の後遺症だろ」

 吐き捨て、俺は獅子族の領地へ一直線に駆けた。

 獅子族の大広間の扉を蹴破った瞬間、そこは異様なほど静まり返っていた。

 いつもなら真っ先に庭から飛び出してきて、目を輝かせながら「ケールお兄さま!」と叫ぶ金色の影がない。俺に媚びるみたいに漂っていた、甘ったるい獅子族の情報素の気配もない。がらんどうの広間にいるのは、怯えきった数人の使用人だけだった。

 胸の奥で、得体の知れない苛立ちが一気に爆ぜる。

 昨夜、俺が彼女を天幕から追い出したことをまだ根に持ってるのか? よくもまあ、俺相手に小賢しい駆け引き――焦らして釣るつもりか。

 天井の高い前庭の中央に立ち、俺は堪えきれず怒鳴った。

「エーリア! 出てこい! くだらねえ真似はやめろ! 今すぐ大人しく出てきて、同盟に余計な迷惑をかけずに円満に解消するなら……俺たちは友人でいられるかもしれない!」

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