第3章

 セバスチャンは、私の手でいまだ冷たい光を放つナイフと、暖炉で灰と化した毛皮を順に見やった。

 最後に、その視線は涙で顔を濡らすヴァレリーへと落ちた。

「出ていけ」

 有無を言わせぬ低い声が、竜巣に響き渡った。

 ヴァレリーはたちまち破顔し、勝ち誇ったように笑う。

「ほら見なさい! セバスチャンが出ていけって! この卑しい人間が!」

「お前に言っているんだ、ヴァレリー」

 セバスチャンは外を指し示した。

「ここは俺と妻の家だ。俺たちのことは、俺たちでどうにかする」

 ヴァレリーは信じられないとばかりに目を見開いた。

「セバスチャン? あたしを追い出すの? 相手はただの人間よ!? さっき私を殺そうとしたのよ!」

「匂いでわかる」

 セバスチャンの声は、氷のように冷ややかだった。

「お前はさっき、ここで発情フェロモンを撒き散らした」

 ヴァレリーの顔がみるみるうちに朱に染まる。

 まるで、大勢の前で平手打ちを食らったかのような屈辱の色。

 彼女は下唇をきつく噛みしめ、私を憎々しげに睨みつけると、顔を覆って竜巣を飛び出していった。

 そのみっともない背中を見送りながら、私はわずかに眉を上げる。

 ――少し、見直した。

 この黒竜、完全に節穴というわけでもないらしい。

 数日後。

 盟約による結婚だったため、式の準備はまさに突貫工事だった。

 だが黒石島の下位竜族や人間の職人たちは、この婚礼に驚くほどの熱意を注いでくれた。

 堅苦しい儀式など一切ない。あるのは豪快な肉の焼ける匂いと、喉が焼けるような強い酒、そして鼓膜を震わせる歓声だけ。

 客は黒石島の守衛たちと、その家族。場の熱気は最高潮に達していた。

 何事もなければ、悪くない夜になったはずだ。

 だがどうやら、他人の幸せを素直に喜べない客もいるらしい。

 皆が杯を掲げて歓談している最中、ヴァレリーが姿を現した。

 彼女は広場の中心へ進み出ると、酒杯を手にし、真っ赤な目で私とセバスチャンを見つめた。

「フィオナが羨ましいわ。一枚の古い盟約書だけで、こんなにも簡単にセバスチャンを手に入れて、最高守衛長の番の座までかっさらっていったんだもの」

 彼女はうつむき、肩を激しく震わせ始める。

「彼女は幸運だわ。私とは違って。私には何もない。こうして遠くから、黙って二人を見つめることしかできない……」

 その声は次第に小さくなり、やがて抑えきれない嗚咽へと変わった。

 古城に響いていた笑い声や喧騒が、ぴたりと止む。

 気まずく重い沈黙が広がっていく。

 事情を知らない何人かの守衛が、同情めいた視線を彼女に向け始めた。

 私は冷ややかにその光景を眺めていた。

 前世、彼女はアイラの結婚式でもまったく同じ手口で被害者を演じ、アイラをまるで他人の愛を奪った強盗のように仕立て上げた。

 その弱々しい仮面で、アイラを一生涯の精神的苦痛へと追い込んだのだ。

 私に道徳の枷をはめるつもり?

 ――寝言は寝て言いなさい。

 私は迷わずセバスチャンへ歩み寄る。死寂の中、彼の真正面で立ち止まった。

 セバスチャンはわずかに首を傾げ、漆黒の瞳でいぶかしげに私を見つめる。

 次の瞬間、私は両手を勢いよく持ち上げ、彼の襟首をがしっと掴んで、その巨体を力ずくで引き寄せた!

 油断していた彼は、私の力に引かれて素直に腰をかがめる。

 私はつま先立ちになり、彼の首筋――純血の黒竜の脈打つ頸動脈に狙いを定め……。

 口を開き、容赦なく噛みついた!

「っ――」

 周囲から、一斉に息を呑む音が上がる。

 痺れるような感覚を伴う熱い竜の血が、瞬時に舌先へ広がっていく。

 セバスチャンの全身の筋肉が、このとき生鉄のように硬直したのがわかった。

 これが竜族特有の絆――一時的な「印」。

 主張したいことがある? 言葉なんか必要ない。

 直接、私の印を刻み込めばいいだけ!

 私は口を離し、唇の端についた血をぺろりと舐め取った。

 彼の首筋には、淡く銀黒に光る歯形がくっきりと残されていた。

 くるりと振り返り、呆気にとられるヴァレリーを見やる。私は片眉を上げ、最高に傲慢な笑みを浮かべた。

「あんたの言う通り、私はかなり運がいいのよ」

 私は声を張り上げ、広場にいる全員の耳に届くように宣言した。

「セバスチャンは実力も地位もあって、顔も致命的なほど美しい。こんな極上のアルファはね、私みたいな女がしっかりマーキングしてあげないと危なっかしいのよ」

 私はわざとセバスチャンに体を寄せた。

 指先を彼の首筋から艶かしく滑らせ、興奮のせいで露わになっていた黒竜の耳にぴたりと止める。

 そして遠慮なく、その敏感な竜鱗を揉みしだいた。

「っ……」

 セバスチャンの喉仏が、ごくりと大きく上下する。

 驚くべきことに、冷たくて青白かったはずの竜の耳が、みるみるうちに怪しげな赤みを帯びていくではないか!

 ――照れている。

 あの風雷を操る恐ろしい黒竜が、大勢の面前で耳まで真っ赤にしているのだ!

「ねえ、セバスチャン?」

 私は真正面から、その瞳を見つめ上げた。

 セバスチャンは唇を固く一文字に結んでいる。

 耳は血が滴りそうなほど赤いのに、私の手から逃れようとはしなかった。

 会場は水を打ったような静けさに包まれていた。

 ヴァレリーの顔はもはや蒼白を通り越し、まるで悪鬼のように歪んでいる。

 拳を固く握りしめ、爪が肉に食い込むほどだ。

 だが、そこは筋金入りの「悲劇のヒロイン」。

 ここまで打ちのめされても、彼女はまだ諦めていなかった。

 深く息を吸い込むと、再び涙をせき止めるダムを決壊させる。

「セバスチャン、フィオナ、誤解しないで。私、本当に……本当に二人の幸せを願ってるの」

 今にも倒れそうなほどふらつきながら、彼女は泣きじゃくった。

「フィオナが私をそこまで嫌うなら、明日はもう邪魔しない。でも、明日は竜族大戦の慰霊日よ。セバスチャンは私のお父様と約束してくれた。毎年、一緒に祭壇崖へ祈りを捧げに行くって」

 涙に濡れた目を上げ、セバスチャンをすがりつくように見つめる。

「忘れてないよね? あの日の約束を!」

 セバスチャンの目が、微かに陰った。

 大勢の目の前で、彼はゆっくりと頷く。

「……明日は、行く」

 私の笑顔が凍りついた。

 ――また、この日だ。この忌々しい慰霊日!

 前世、セバスチャンとヴァレリーは結婚の翌日に二人きりで密会し、戻ってきてからは一言の釈明もなかった!

 新婚二日目に、正真正銘の夫が幼馴染と仲睦まじい芝居を打つのを、黙って指をくわえて見ていろと?

 冗談じゃないわ!

 私は彼の手首をきつく掴むなり、そのまま懐へ深く飛び込んだ!

 腰を捻り、両足で強く地面を踏み込む!

 彼が気を抜いた、その一瞬の隙を突いて――

 ドンッ!!!

 石畳を震わせるほどの轟音が、古城全体に響き渡った。

 セバスチャンは私に鮮やかな一本背負いを決められ、硬い地面に背中から叩きつけられたのだ!

 その場にいた全員の顎が、見事に外れかけた。

 私は地面に倒れたセバスチャンの前に立ち、その鼻先に指を突きつけた。

「明日、あんたが行けると思う?」

 歯ぎしりしつつ、一語一語噛みしめるように吐き捨てる。

「一歩でもこの門の外に出ようものなら、その瞬間にあんたを『死んだ竜』にしてやるから!」

前のチャプター
次のチャプター