第2章
革張りのソファに、亮介は脱力したように沈み込んでいた。手にした離婚協議書が、夜の闇に青白く浮かび上がっている。
すべてがあまりに突然だった。美紅の挑発、由紀の冷静さ、そして、さらりと言い放たれた『他に好きな人ができたの』という一言。彼はこれを、由紀のいつもの感情的な脅し文句だと思っていた。過去十年間の数え切れないほどの口論のように、甘い言葉をいくつかかければ収まる類のものだと。
だが、無造作に協議書の最初のページをめくった瞬間、彼の表情は凍りついた。
『家族財産目録』という文字が目に飛び込んでくる。その下には、小数点まで正確な数字の列が続いていた。
蒼湖湖畔ヴィラ(推定価値 2,775万円)
白峰中心タウンハウス×3(推定価値 6,300万円)
白峰林園邸(推定価値 1,425万円)
……
亮介の指が震え始めた。この財産リストは恐ろしいほどに詳細だった。すべての不動産の具体的な住所と市場評価額だけでなく、投資株式の数量、銀行口座の番号、果ては彼のアンティーク時計のコレクションまでもが、一つ一つ項目立てて記されている。
「十七件……」彼は絞り出すような声で呟いた。
由紀は暖炉のそばに立ったまま、その細いシルエットが炎の光の中でひときわ冷ややかに映っていた。振り返りもせず、彼女は平坦な声で言った。「私が八つ、あなたが九つ。長年の……あなたの『我慢』への慰謝料だと思ってちょうだい」
「我慢だと?」亮介は勢いよく顔を上げた。眼鏡がずり落ちそうになる。「由紀、何を言っているんだ?」
「それと蒼湖湖畔倶楽部、私が保有している二十二パーセントの株式。市場価格で買い取って。現金払いでね」。由紀は振り向き、その口調は天気の話でもするかのように穏やかだった。「弁護士も、この分配はかなり公平だと言っていたわ」
「いつからだ?」
由紀は酒棚へ歩いていくと、自分にウイスキーを注いだ。「あなたに報告する義務はないと思うけれど」
亮介は席から跳ねるように立ち上がった。協議書が床に散らばる。「俺を裏切ったのか!?」
「裏切った?」由紀は軽く笑い、琥珀色の液体がクリスタルグラスの中で静かに揺れた。「亮介、私たちの結婚がいつ貞節契約だったことがある?あなたと美紅、私と……誰かさん。これって、これまで通りの私たちのやり方じゃない?」
亮介は彼女に向かって大股で歩み寄った。スーツの金ボタンが暖炉の光を反射してきらめく。「俺たちの家庭を、完全に破壊するつもりか!」
「家庭って?」由紀はグラスを唇に運び、その目に嘲りの色がよぎった。
亮介の顔が青ざめた。
「その男は誰だ」。彼の声は、低く、危険な響きを帯びていた。
「それが何か関係ある?」
「誰なんだ!」亮介の怒声が、広々としたリビングに響き渡った。
由紀は数秒間黙った後、平坦な声で告げた。「早川直哉。南区の、あの若いピアノ弾きよ」
空気が一瞬で凍りついたかのようだった。
亮介は信じられないといった様子で妻を見つめた。まるで、初めて彼女を見るかのように。
「ハッ!」亮介は突如、乾いた笑い声を上げた。「気でも狂ったか?あの青二才がお前に何を与えられる?お前が今着ているそのコートを、あいつが一年分の給料で買えるか?今のお前と同じ生活をさせてやれるのか?ふざけるな!」
彼は由紀が身にまとったフランス風クチュールシルクドレスを指さし、その声には嘲りがたっぷりと含まれていた。「あいつの月収がいくらか知ってるか?2,250円だ!お前のストッキング一足分にもなりやしない!そんな無一文の何者でもない男のために、このすべてを捨てるというのか?」
亮介は両腕を大きく広げ、周囲のすべてを指し示した――ペルシャラグ、クリスタルシャンデリア、絵画、骨董品、そして白峰の上流社会のステータスを象徴する豪華な調度品のすべてを。
「あいつがお前を湖畔のクラブのサマーボールに連れて行けると思うか?お前を白峰社交界の女王でいさせてやれるか?俺がいなければ、お前は無価値なんだ!」
由紀はこの激昂した言葉を静かに聞き、そしてそっと首を横に振った。「どうでもいいわ。そんなもの、気にしていない」
「気にしていないだと?」亮介の声が一段高くなる。「お前の宝石を気にしていない?お前の地位を気にしていない?お前にへつらってくるあの社交界の女たちを気にしていないのか?」
「気にしていない」
「この1,500万円の家を気にしていないと?」
「気にしていない」
「神谷家の姓と名誉を気にしていないのか?」
「やれやれ.......私は一度も気にしたことなんかなかった」。由紀の声は恐ろしいほどに穏やかだった。「私が本当に気にかけているものを、あなたは決してくれなかった」
その一言は、重い一撃のように亮介の心を打ちのめした。
その時、亮介の視線が由紀の左手に落ちた。
薬指には、75万円のダイヤの指輪が消え、代わりに極めてシンプルな銀の指輪がはめられていた。そのデザインは笑ってしまうほど単純で、露店で数セントで買える安物のように見える。
しかし、由紀のその指輪の着け方は、彼が贈ったダイヤの指輪をはめていた時よりも、ずっと大切そうだった。
亮介の理性が、ぷつりと切れた。
「由紀!」彼は妻に飛びかかり、その荒々しい両手で彼女の喉を強く締め上げた。「誰がお前に他の男を愛していいと許したんだ!」
由紀のグラスが床に叩きつけられ、ウイスキーが飛び散った。彼女はありったけの力で亮介を押し返そうとするが、喉を締められ、かすれた声しか出ない。「あなた……あなた、狂ってる!」
「俺が狂ってる?俺がだと!?」亮介の目は血走り、血管が浮き出ていた。「病気なのはお前の方だ!貧乏人のために自分の家族を裏切り!俺たちの結婚を裏切り!」
由紀は必死にもがき、その爪が亮介の手に血の筋をつけた。「離して……離して……」
「その指輪はあいつからだろう!」亮介の声はヒステリックになっていた。「外せ!今すぐ外せ!」
「いや!」由紀は残りの力を振り絞って叫んだ。
亮介の握る力が強まり、由紀の顔が紫色に変わり始めた。このまま絞め殺されると思ったその時、亮介は不意に力を緩めた。
由紀は床に崩れ落ち、激しく咳き込みながら、涙が止めどなく流れ落ちた。
亮介は彼女を見下ろし、胸を激しく上下させながら、その目は追い詰められた野獣のように獰猛だった。
彼の声は、恐ろしいほどに低い。「離婚したいだと?いいだろう。だが、お前の思い通りにさせると思うな」
彼は身をかがめ、散らばった協議書を拾い上げると、ずたずたに引き裂いた。
「お前が欲しいというその資産?一銭たりともくれてやるものか」
「お前が欲しいというその自由?神谷家を裏切る代償がどういうものか、思い知らせてやる」
紙片が雪のようにリビングに舞い落ちる中、亮介の笑い声が真夜中の屋敷に響き渡った。それは、骨の髄まで凍りつかせるほど不気味なものだった。
由紀は自分の喉に触れた。その目にはもはや恐怖はなく、あるのは骨身に染みる失望と、揺るぎない決意だけだった。
