第4章
意識がゆっくりと潮のように満ちてきて、由紀は徐々に目を開けた。首筋に焼け付くような痛みが走る。
涙で滲んだ視界に、天井のクリスタルシャンデリアがぼやけて映る。彼女はリビングのカーペットの上に倒れており、周囲には引き裂かれた離婚協議書の白い紙片が、まるで雪のように散らばっていた。
亮介の姿は、もうなかった。
由紀は床に手をついて体を起こしたが、喉の奥から波のように痛みが押し寄せてくる。首に触れると、そこにはまだ彼の指の跡が生々しく残っていた。十年間の結婚生活、その結末がこれだなんて、最後の尊厳まで、ずたずたに引き裂かれてしまった。
ふと、指にはめられたシンプルな銀の指輪に視線が落ちる。先ほどの修羅場の最中でも、彼女はこの指輪だけは固く守り抜き、決して亮介に気づかせなかった。
この指輪が、彼女のすべての希望であり、勇気の源だった。
「直哉……」
力を呼び起こすかのように、彼女は彼の名をそっと囁いた。
その瞬間、記憶の堰が切って落とされたように、過去の光景が溢れ出した……
一ヶ月前、すべてを変えたあの夜……
亮介は由紀の目の前で、臆面もなく美紅と甘い声で電話をしていた。「美紅、今夜は早く行くからね」。電話を切ると、彼は由紀に一瞥もくれず、ただ冷たく言い放った。「お前も誰か見つけたらどうだ」
『ええ、見つけてやるわ。あなたが絶望するような男を』
当時、彼女はそう心に決め、当てつけのように最もカオスな地下クラブへと車を走らせた。
地下は煙が立ち込め、薄暗い照明があらゆる種類の人々を照らし出していた。由紀が現れた瞬間、無数の視線が突き刺さる。高価なフランス製のシルクドレスをまとった女性は、明らかにこの場所に不釣り合いだった。
その時、ピアノの音楽が始まった。
それは彼女が今まで聴いた中で最も純粋な音楽で、一音一音が魂の奥底から流れ出てくるようだった。由紀は音に導かれるままに視線を向けると、そこには使い古されたピアノの前に座る一人の青年がいた。
彼の指は鍵盤の上で舞い、まるで世界で最も感動的な愛の物語を語っているかのようだった。その瞬間、由紀は自分が何故ここに来たのかも、自分が誰なのかも忘れ、ただ静かに聴き入っていた。気づけば、涙が頬を伝っていた。
演奏が終わると、雷鳴のような拍手が沸き起こった。青年が顔を上げると、その視線はまっすぐに由紀のそれと交わった。
時が止まったかのようだった。
彼は歩み寄ってくると、丁寧に言った。「お嬢様、こちらにはあまりいらっしゃらない方とお見受けしますが」
由紀は涙を拭い、やや詰まった声で言った。「何か……本物を探しているんです」
彼は手を差し出した。「早川直哉です」
「神谷由紀です」。彼女はその温かい手を握り返した。
「誰かの音楽で泣いたのは、初めてです」。由紀は彼の目をまっすぐに見つめた。「私の世界では、音楽はただの背景、ただの飾りでしかありませんでした。でも、あなたの音楽には……魂がこもっている」
直哉の目に、一瞬驚きの色が浮かんだ。
由紀は自嘲気味に微笑んだ。「今夜は逃げ出したかっただけなのに、まさか……こんなに美しい音楽に出会えるなんて」
「音楽は嘘をつきません」
直哉は真剣な眼差しで言った。「その人が心の中に何を抱えているか、教えてくれるんです」
―――
クラブの外の路地では、月明かりが石畳に降り注いでいた。直哉は、せめて富裕層地区の入り口まででもと、由紀を送り届けると言って譲らなかった。
由紀の声は羽のように軽かった。「今夜あなたが私を見てくれたみたいに、夫が私を見てくれたことは一度もありませんでした」
直哉は少し黙り込んだ。「ご結婚されて……いるんですか?」
「愛のない結婚よ」由紀は自嘲した。「私たちの世界では、よくあること。社会的地位のため、財産のため、愛以外のすべてのために結婚するの」
「あなたは何が欲しいんですか?」
由紀は夜空の星を見上げた。「私を本当に愛してくれる人が欲しい。私のお金や地位や、私がもたらす利益のためじゃなくて、私が欲しいのは……」彼女は言葉を切り、「私のために、本物の音楽を奏でてくれる人」
直哉は彼女の手を取った。「もしあなたが望むなら、俺はあなたのために一生、音楽を奏でたい」
―――
二週間後、
陽は沈みかけ、湖の水面がきらめいていた。都会の喧騒から遠く離れたここで、いるのは二人だけだった。
この間、由紀は密かに直哉のジャズを聴きに通っていた。この青年が驚くべき音楽の才能だけでなく、彼女が今まで見たことのない純粋さと優しさを持っていることに気づいたのだ。
彼は彼女にお金を求めず、何も変えることを要求せず、ただ静かに彼女のために演奏し、語りかけ、本物の抱擁をくれた。
その日の夕方、直哉は突然ひざまずいた。
由紀の心臓が跳ね上がった。「直哉さん、あなた、何を……」
彼はポケットから粗末な小箱を取り出した。中には、極めてシンプルな銀の指輪が入っていた。「由紀さん、この指輪は小さいけど、俺の心のすべてなんだ。離婚してほしい」
「直哉さん……」。由紀の目から涙が噴き出した。
「今のあなたが持っているものすべてを、俺はあげられないって分かってる」。直哉の声は震えていた。「俺はただの貧しい若者だけど、本物の愛をあげることはできる。毎日君のために演奏できるし、命を懸けて君を守ることもできる。俺は……」
「もういいわ」。由紀は彼を遮り、震える手を差し出した。
直哉は慎重に指輪を彼女の指にはめた。彼女は冷たい金属に触れたが、それはまるで魂全体に火をつけたかのようだった。カラット数も、ブランドの刻印もない。ただ、彼の震える声と、決意に満ちた瞳があるだけ。この瞬間、彼女はついに理解した――自分が欲しかったのはダイヤモンドの輝きではなく、一人の人間のために心が激しく高鳴るこの感覚だったのだと。
彼女は直哉の顔を撫でた。「私がお金や地位を欲しがったことなんて一度もなかった。私が欲しかったのはこれよ。他の何のためでもなく、ありのままの私を、心から愛してくれる人」
「じゃあ、君の答えは……」
「ええ」。由紀は力強く頷いた。「彼とは離婚するわ。すべてを失っても、あなたと一緒にいたい」
直哉は興奮して立ち上がり、彼女を強く抱きしめた。
由紀は彼の腕の中で目を閉じ、彼が与えてくれる安心感に身を委ねた。
―――
そして現在、深夜のリビングで
このことを思い出し、由紀は手の銀の指輪を握りしめた。亮介の偽りの約束に比べ、直哉の愛はあまりにもリアルで、純粋だった。
高価なダイヤモンドの指輪で彼女を縛りつけた男と、シンプルな銀の指輪で彼女を解き放った男。
彼女を所有物と見なした夫と、彼女を宝物のように大切にした恋人。
黄金の鳥籠に彼女を閉じ込めたパートナーと、自由な空へ共に羽ばたこうとしてくれた魂。
「私の選択は、間違っていなかった」。由紀は立ち上がり、その足取りは確かなものだった。
