第1章
芽衣は雨の中、髙野拓海に車の鍵を届けに来た。だが個室へ入る前に、扉の向こうから話し声が漏れてくる。
「拓海、由佳が帰国したぞ。芽衣とは、いつ離婚するつもりだ?」
芽衣の足が、ぴたりと止まった。
半開きの扉の隙間から見えたのは、ソファに腰を預けた男の姿。
髙野拓海は背もたれに身を沈め、シャツのボタンを二つ外している。覗く鎖骨。長い指先には煙草が一本。ゆらゆらと漂う煙の向こうで、彫りの深い整った横顔が、気怠げに笑っていた。
「だよな」
幼なじみの西田圭介が、からかうように口笛を吹く。
「お前と由佳って、こっちじゃ誰もが認める美男美女だっただろ。あのとき芽衣が横からかっさらわなきゃ、今ごろ子どもだっていたんじゃねえの?」
「ほんとそれ」
誰かが鼻で笑う。
「芽衣みたいな腹黒い女が、髙野夫人とか無理だろ。林谷由佳は今や有名なヴァイオリニストだぞ? 芽衣は? ただの専業主婦。何で張り合えるんだよ」
髙野拓海はゆっくり煙を吐き出した。切れ長の目に、どこか艶めいた色が差す。
「比べようがないな」
ふわりと落ちた一言が、刃みたいに芽衣の胸へ突き刺さった。
顔から血の気が引く。身体がぐらりと揺れる。
――ああ。彼も、そう思っていたんだ。
分かっていたはずなのに。
もっと早く気づくべきだったのに。
その瞬間、掌に鋭い痛みが走った。見れば、鍵を握り締めすぎて先端が皮膚を裂いている。
半時間前、髙野拓海から電話があった。
車の鍵を家に忘れた、と。
傘を取る暇もなく、芽衣は鍵を掴んで飛び出した。
タクシーは捕まらない。だから走った。
3km。20分。雨に打たれ、ずぶ濡れのまま。
……それで、これ。
ほんと、馬鹿みたい。
芽衣は鍵を個室前のシューズボックスの上に置き、赤く滲んだ目を伏せたまま踵を返した。
……
別荘に戻った時には、もう夜10時を回っていた。
灯りをつける。
壁に飾られた結婚写真が目に入る。
かつては甘く見えたその一枚が、今はただ眩しくて、痛かった。
髙野拓海は芽衣の幼なじみだった。
小さい頃からずっと好きだった。
高校を卒業したら想いを伝える――そう決めていたのに、その前に彼は林谷由佳と付き合い始めた。
二人は二年も交際し、結婚間近だった。
だが、その頃、髙野家に異変が起きた。
拓海の父親が投資に失敗し、一気に破産した。
そして、その夜のうちに林谷由佳は姿を消した。
よりにもよってその時期、芽衣は髙野爺さんの命を救った。
芽衣が拓海を想っていると知った爺さんは、独断で二人の結婚を決め、拓海にそれを強いた。
拓海が望んでいないことくらい、芽衣にも分かっていた。
それでも。
相手は、子どもの頃からずっと好きだった人だった。
だから芽衣は、恥知らずだと自分を責めながらも、爺さんの采配に従った。
拓海は芽衣を、隙につけ込んだ女だと思っていた。
恩を笠に着て結婚を迫った女だと思っていた。
結婚して三年、一度としてまともに触れてこなかった。
けれど芽衣は、それでもよかった。
同じ屋根の下で暮らしていれば、いつか情が生まれる。
そう信じていた。
だから仕事もやめた。
進んで専業主婦になった。
彼が忙しければ、静かに待った。
彼が冷たければ、黙って受け入れた。
自分は林谷由佳じゃない。
でも、林谷由佳の一万倍、尽くすことはできる。
林谷由佳は去った。けれど自分は去らない。
そう思っていたのに。
今日、彼の口からはっきり「比べようがない」と聞かされた瞬間、芽衣はふっと、何もかもが空しくなった。
結局、彼の目にも、自分は他の連中が言うのと同じ女でしかなかったのだ。
横から奪った女。
腹に一物ある女。
計算づくで高野家に入り込んだ、あざとい女。
三年間の気遣いも、三年間の我慢も、彼にとっては、地位にしがみつくための小細工にしか見えなかったのだろう。
林谷由佳が帰ってきた。
なら、自分は退くべきだ。
芽衣は潤んだ目を伏せ、シャワーを浴びて、清潔な服に着替えた。
それからパソコンを開き、離婚協議書を書き始める。
離婚理由の欄に差しかかった時、報復めいた感情が胸の奥からせり上がり、唇を噛みながら数文字を書き込んだ。
書き終えるとそれを手にリビングへ行き、髙野拓海の帰りを待った。
どれほど経っただろう。
やがて窓の外でエンジン音が鳴った。
まもなく、扉が開く。
髙野拓海が入ってくる。
広い肩、引き締まった腰。全身から漂う矜持と冷たさは、立っているだけで人を圧する。
ジャケットを脱ぎ、カフスを外す。
露わになった前腕は、無駄なく締まり、力強い。
髙野家は帝京市でも指折りの富豪だ。
髙野拓海はその一人息子。
幼い頃から叩き込まれたのは、将棋、騎射、経済、商才。18歳で博士課程を終え留学し、21歳で家業を継いだ。そして、わずか5年で髙野グループを華国の長者番付に押し上げた。
彼の人生は、凡人が一生かけても届かない高みにある。
芽衣はそんな彼を見つめ、ふいに思う。
目の前に立っているのに、どうしてこんなにも遠いのだろう、と。
髙野拓海が歩み寄り、艶を含んだ低い声で言った。
「どうして鍵を入口に置いて帰った」
芽衣は彼を見据える。
「中に入ってきてほしかったの?」
水を飲もうとした彼の手が、わずかに止まった。
細い目が芽衣を一瞥する。
きっと、答える価値もない問いだと思ったのだろう。
彼は何も言わなかった。
芽衣も追及しない。
ただ、テーブルの上の白い紙を見つめる。
「林谷由佳、帰ってきたのね」
その言葉に、拓海の淡々とした表情がわずかに揺れた。
彼は芽衣を見る。その目からは何の感情も読み取れない。
「君に関係あるか?」
芽衣は小さく笑った。
三年。
彼はいつも、この口調だった。
冷たすぎず、近すぎず。
同じ屋根の下にいるだけの赤の他人へ向ける声。
いや、他人以下かもしれない。
他人になら、彼だって少しくらいは愛想を見せる。
芽衣には、その手間すら惜しむのだ。
でも、もうどうでもいい。
「あるわよ」芽衣は言った。「だって、私はあなたの妻だもの」
テーブルの上の書類を手に取り、彼の視線をまっすぐ受け止める。
「自分の夫が元恋人とやり直そうとしてるなら、妻としては空気を読んで身を引くべきでしょう?」
髙野拓海が目を細めた。
芽衣は唇の端を少しだけ上げる。
「髙野拓海、離婚しましょう」
空気が一瞬、しんと静まる。
彼は、まさかそんな言葉が出るとは思っていなかったのだろう。
瞳の奥に淡い波紋が走った。
「……何だって?」
「離婚しましょう、って言ったの」芽衣は感情を失ったみたいに繰り返す。「どう? 嬉しい?」
「芽衣」
髙野拓海は彼女の名をフルネームで呼び、その目で逃がさぬように見据えた。
「あれだけ手を尽くしてでも俺と一緒になりたがったくせに、今さら離婚だと?」
過去に触れられ、芽衣の長い睫毛がかすかに震える。
「好きに思えばいいわ。ここ数年は、私があなたに迷惑をかけたってことにしておく。だから、今はきれいに別れましょう」
「きれいに、だと?」
髙野拓海は節だった指でネクタイをゆるく引いた。
次の瞬間、ぐっと身を屈め、芽衣へ迫る。逞しい腕が芽衣の横へ伸び、狭い空間へ閉じ込めた。
「嫉妬してるだけだろ。林谷由佳が戻ってきたから」
薄く笑う。
冷たい笑みだった。
「離婚だなんて言えば、俺の気を引けるとでも思ったか。そうして自分の立場を守るつもりか?」
芽衣は無意識に、手の中の離婚協議書を強く握り締めた。
「芽衣、言っておくが――無駄だ」
男の嘲るような声が、刃のように耳を貫く。
芽衣は喉を一度強く鳴らし、とうとう堪え切れず、離婚協議書を彼の胸に叩きつけた。
「髙野拓海、自惚れも大概にして」
胸の奥の酸っぱい痛みを押し殺し、言い放つ。
「私はもう署名したわ。問題ないなら、髙野社長もサインしてくださる?」
書類は彼の胸元からするりと滑り落ちた。
髙野拓海は冷笑し、それを拾い上げる。
視線を下へ走らせ――離婚理由の欄を見た瞬間、目の色が一気に沈んだ。
【離婚理由:夫のED】
