第3章
そのひと言は、爆弾みたいに個室の空気を一気に弾けさせた。
芽衣は割れた瓶を握る手に、ぎゅっと力を込める。
――高野夫人。
その四文字が、棘みたいに胸の奥へ刺さった。
昔は、その呼び名が大好きだった。
誰かに「高野夫人」と呼ばれるたび、心のどこかがじんわり温かくなったのに――今は、皮肉にしか聞こえない。
「人違いです」
「人違い?」花柄のシャツを着た男が前へ飛び出してくる。「高野さん、俺は高野家のパーティーで見たことあるんだよ!」
芽衣は何も言わなかった。
周りの男たちも、酔いが半分ほど抜けたらしい。
「高野拓海の奥さんか?」
「くそっ、先に言えよ」
「ヤバい、行くぞ、行くぞ……」
さっきまでの勢いはどこへやら、男たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
――まさか、あの名前がこんなに効くなんて。
芽衣は苦く笑い、竹村茜を支えながら外へ出た。
車の中で茜は一度吐いたが、家に着くころにはだいぶ酔いも醒めていた。
ソファにぐったり沈み込み、芽衣が水を持ってきたりタオルを取ってきたりと甲斐甲斐しく動くのを見て、茜がふいに口を開く。
「来てくれないかと思ってた」
芽衣の手が、ぴたりと止まった。
茜は芽衣を見つめ、少し赤くなった目で言う。
「こんな時間だし、どうせ家で高野拓海を待ってるんだろうなって。前もさ、誘っても毎回そうだったじゃん。帰りを待たなきゃ、夕飯作らなきゃ、灯りを残しとかなきゃって……」
この数年、拓海中心の暮らしのせいで、芽衣がいろんな誘いを断ってきたのは事実だった。
芽衣はコップをローテーブルに置き、茜の隣に腰を下ろす。
「もう、そういうのはやめる」
茜が目を瞬く。
「どういう意味?」
芽衣はしばらく黙ってから、静かに言った。
「離婚するつもりなの」
「はあ!?」
茜はソファから跳ね起きた。勢い余って、芽衣の顎に頭をぶつけかける。
「今なんて言った? 離婚? 高野拓海と離婚するって?」
芽衣はうなずいた。
「正気!? 芽衣、あんたがあいつのこと何年好きだったと思ってんの。やっと嫁げたのに、なんで離婚なの? 熱でもあるの!?」
芽衣は、今日あったことを一通り話した。
聞き終えた茜は、きっかり一分ほど黙り込んだあと――盛大に罵り始めた。
「高野拓海って、頭に穴でも空いてんの!?」
「『比べようがない』って何よ! 何が比べようがないのよ! 林谷由佳みたいな恩知らずが、あんたと並べるわけないでしょ!」
「高野家が落ちぶれた時、林谷由佳はどこにいたの? 海外でのうのうと遊んでたんでしょ! あんたは? 真冬の雪の中で膝ついて、あいつのじいさんに心肺蘇生して、三日三晩つきっきりで看てたのよ!」
「今さら有名なヴァイオリニスト? 高野家の金で持ち上げてもらわなきゃ、何者でもなかったくせに!」
「あと、あの口の軽い連中もムカつく! 美男美女? ふざけんじゃないわよ!」
唾が飛びそうな勢いで怒鳴り散らす茜を聞いているうちに、芽衣は思わず笑ってしまった。
「笑ってる場合?」
茜がじろりと睨む。
「違う」芽衣は首を振る。「ただ……私の代わりに怒ってくれる人がいるって、いいなって思って」
その言葉に、茜の目がまた赤くなる。
「芽衣、あんた……我慢しすぎたよ」
芽衣は答えなかった。
――我慢、か。
たぶん、そうなのだろう。でももういい。
どうせ離婚するのだから。
茜は大きく息を吐き、ふと思い出したように言った。
「そうだ。明日の夜、パーティーがあるんだけど、あんたも来なさい」
芽衣は首を横に振る。
「行きたくない」
「だめ、絶対行くの!」茜は芽衣の手をがしっと掴む。「金持ちがわんさか来るし、帝京の大物が揃うのよ。離婚するんでしょ? だったらやり直さなきゃ。新しい人脈だって必要じゃない」
「茜……」
「決まり!」茜が有無を言わせず遮る。「明日の午後、迎えに行く。ちゃんと着飾らせてあげる。あんた、この三年ずっと高野拓海の周りをくるくる回って、自分のこと、ババアみたいにしてたじゃない。そろそろ見せなさいよ。本当のあんたを」
芽衣はため息をついた。
まあ、いいか。行くだけ行ってみよう。息抜きにはなる。
一方そのころ――。
高野拓海が林谷由佳のもとから戻ったのは、深夜2時近くだった。
リビングは真っ暗で、灯りも人の気配もない。
拓海は眉をひそめる。いつもなら、どれだけ遅くなっても芽衣が灯りを一つ残しておくのに。今日は妙だ。
靴を履き替えて二階へ上がる。
客室の前を通りかかったところで、ふと足が止まった。
扉が開いている。
覗くと、部屋に人影はない。
中へ入るとクローゼットの扉も開いていた。中身は、半分ほど空になっている。
拓海の目が沈む。
嫌な予感に突き動かされ、ナイトテーブルの引き出しを開けた。
身分証がない。カード類もない。
――出ていったのか?
胸の奥に、ざらつくような苛立ちが湧く。
拓海はスマホを取り出し、芽衣へ発信した。
『おかけになった電話は通話中です……』
いったん切って、もう一度。
『おかけになった電話は電源が入っていないか……』
拓海はスマホを握る手に力を込めた。指の節が白くなる。
……いい度胸だ。
芽衣、随分と偉くなったもんだな。
冷えた顔のまま階下へ降り、酒を注いでソファに腰を下ろす。
一気にあおった。
アルコールが喉を焼き、少しずつ頭が冷えていく。
騒ぎたいだけ騒いで、出ていきたいだけ出ていったんだ。
二、三日もすれば、どうせ戻ってくる。
あれほど長い間自分を好きでいた女が、そう簡単に離れられるはずがない。
所詮は嫉妬。拗ねた真似だ。
冷静になれば、自分から帰ってくる。
その時は――
いや、その時でも、簡単に許すつもりはなかった。
女を甘やかすと、ろくなことにならない。
翌日。
芽衣はパーティー会場の入口に立ち、深く息を吸った。
今日は赤のドレス。
裾は足首まで流れ、スリットは太ももの高い位置まで大胆に入っている。計算された仕立てが、凹凸のある身体のラインを容赦なく浮かび上がらせた。
それに合わせてメイクもした。
ただでさえ整った顔立ちが、艶と品を纏っていっそう華やぐ。
茜がどうしてもこのドレスを選ぶと言って聞かなかったのだ。「全員食ってく勢いで行け」とまで息巻いていたが、芽衣には少々大袈裟に思えた。
「緊張しないで」茜が耳元で囁く。「周りの連中なんて、みんなジャガイモだと思っとけばいいのよ」
芽衣は一歩、会場へ踏み入れた。
瞬間、四方八方から視線が刺さる。
「誰だ?」
「見たことないな。どこの令嬢?」
「綺麗……前からいたっけ」
ひそひそ声が波のように押し寄せる。
芽衣は指先をきゅっと握った。
以前の自分なら、こういう場所には決して来なかった。
拓海と結婚してからは装うことさえ嫌いになり、いつもすっぴんに地味な服。目立たぬように、ただ隠れてきた。
でも――もう、隠れたくない。
グラスを手に会場を進んでいると、若い男が一人近づいてきた。
上品な顔立ちで、物腰も柔らかい。
「こんばんは。突然お声がけして失礼ですが、もしよろしければ……お知り合いになれませんか?」
芽衣が丁重に断ろうとした、その時。
横から茜がひょいと現れる。
「もちろんですとも!」茜は芽衣の腕に絡み、そのまま男の前へぐいっと押し出した。「彼女、星野芽衣。独身――あ、違った。もうすぐ独身!」
芽衣は思わず茜を睨む。
茜は知らん顔だ。
男は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑みを深めた。
「それはなおさら光栄ですね。星野さん、よければ一曲、踊っていただけませんか?」
芽衣は口を開きかける。
「踊る踊る!」茜がまた先回りする。「彼女、ダンスすごく上手いんです。ほら、早く連れてって」
芽衣は驚いて振り返った。
茜はにやにやしながら、目で言う。
――行ってきなさい。高野なんとかを悔しがらせてやればいいのよ。
芽衣は諦めたように息を吐き、男へ向き直ってうなずいた。
「……お願いします」
二人はダンスフロアへ向かう。
男は芽衣の腰に手を添え、もう片方の手で彼女の手を取った。
ゆっくり、円を描くように旋回する。
「お上手ですね、星野さん」
「昔、少しだけ習っていたので」芽衣は淡々と返す。
実際、踊れた。
子どもの頃に何年か習っていたのだ。のちに拓海が林谷由佳のヴァイオリンを好んでいたことから、自分もこっそり音楽を学ぼうとしたこともある。だがそちらには才能がなかった。
――それでも、踊りの基礎だけは身体に残っている。
海野尚也に導かれ、一回転。
ふわり、とスカートが広がった。咲き誇る花みたいに。
周囲の動きが、次第に止まっていく。
集まる視線。
今度は容姿だけじゃない。舞い姿に、息を呑んでいる。
「すごい……」
「え、あれ高野夫人じゃない?」
「うそ、あんなに……」
ざわめきが広がった、その時。
入口のほうでどよめきが起きた。
高野拓海が、会場に入ってきたのだ。
拓海の目が最初にとらえたのは、一つの背中。
赤いドレス。細い腰。翻る裾。
最初は、どこかの連れだろうとしか思わなかった。
踊りは悪くない――その程度だ。
だが女が振り向き、顔がはっきり見えた瞬間。
拓海の表情が、すとんと冷え落ちた。
芽衣だ。
隣にいた林谷由佳も視線を辿り、顔色を変える。
どうして芽衣がここにいるの?
拓海はダンスフロアの中央を、じっと見据えた。
自信に満ちた立ち姿。目尻にかかる艶。くるりと回るたび、赤いスカートが薔薇の花弁みたいに揺れ広がる。
――こんな芽衣は、見たことがない。
拓海の記憶の中の芽衣は、いつもだぶついた服で俯きがち、声も小さくて、少しの刺激で殻に閉じこもる蝸牛みたいな女だった。
だが、今目の前にいるのは――。
拓海の視線が、男の手に留まる。
その手は芽衣の腰に置かれ、指先がかすかに撫でてさえいた。
瞬間、拓海の顔色が一気に沈んだ。
林谷由佳の手を振りほどき、大股でダンスフロアへ向かう。
そして何の前触れもなく、芽衣を男の腕の中から引き剥がし、そのまま乱暴に外へ連れ出した。
「高野拓海!?」芽衣はもがく。「何するの、放して!」
拓海は手を離さない。
そのまま会場の外のベランダへ引きずっていき、壁へ押しつけた。
ベランダに灯りはない。
あるのは、淡い月光だけ。
月明かりの下、赤いドレスは彼女の肌を雪みたいに白く見せる。
その瞳には、もう昔の従順さはない。ただ冷たさと距離だけが宿っていた。
拓海は芽衣を見つめ、なぜだか胸の中の火が、ますます強く燃え上がるのを感じた。
「芽衣」噛みつくような声だった。「そんなに男がいないと生きていけないのか?」
