第6章 名医
芽衣は反射的に踵を返し、そのまま足早に立ち去ろうとした。
背後から声が追いかけてくる。
「芽衣?」
肩が、ぴくりと強張る。逃げ場を失って、芽衣は足を止めた。
――やっぱり、見られた。
髙野拓海は林谷由佳の肩を抱いたまま、長い脚で一歩。次の瞬間には、二人とも芽衣の目の前に立っていた。
芽衣が口を開くより先に、林谷由佳が眉をひそめ、驚いたふりで言う。
「芽衣、こんなところで会うなんて偶然ね。まさか……」
言い切る前から、含みのある声音に胸の奥が冷えた。芽衣の視線は、包帯でぐるぐる巻きにされた由佳の手へ落ちる。思わず、笑いそうになる。
少し前、自分が高熱で倒れた時――拓海は「病気なら治せ。俺は医者じゃない」と冷たく言い捨てただけだった。
それから三日間、顔すら見せなかった。
なのに由佳は、骨折もしていなければ欠損もない。ただ手に包帯を巻いているだけだ。そんな彼女を、大げさに病院へ連れてくるなんて。誰かに狙われてるとでも思ってるの?
「私がここにいたら、何か問題?」芽衣は背筋を伸ばし、眉を上げる。「病院って、林谷由佳の私物だったっけ」
由佳は即座に、いじめられたみたいな顔を作った。
「そんなつもりじゃ……」涙を滲ませて拓海を見上げる。「ただ、芽衣さんも具合が悪いなんて、偶然だなって……」
拓海が目を細める。
「お前、具合悪いのか?」
その言葉だけ聞けば、心配しているみたいに聞こえる。
――でも、彼の顔を横切った一瞬の嫌悪を芽衣は見逃さなかった。
「私は――」
言いかけた芽衣を遮るように、拓海は上から下まで値踏みするように眺めた。
地味な服。肩にはショルダーバッグ。
けれど、いつもみたいな黒縁眼鏡はない。化粧もしていないのに、妙に目を引く――作りものじゃない綺麗さ。
「何を拗ねてる」拓海の声音が冷たくなる。
顔色はいい。病人の顔じゃない。
どうせ、彼が由佳に付き添っているのを知って、わざと追ってきた――そう決めつけているのだろう。
芽衣は一瞬、言葉を失った。眉を寄せ、心底わからないという顔で言う。
「用がないなら、どいて。邪魔」
この二人と、これ以上揉める気はない。
「ここまで追いかけてきたのは、俺に構ってほしいからだろ?」
そして、拓海は平然と続けた。
「芽衣。お前、我慢できないなら精神科でも行け」
芽衣は目を見開き、喉の奥で笑った。呆れて笑うしかない、というやつだ。
彼女はバッグの中を探り、紙を一枚取り出す。
「よく見て」
ひらり、と持ち上げて見せる。
「これ、私の新しい恋人の健康診断の結果。誰が私が病気だなんて言ったの?」
芽衣は口元を吊り上げる。
「あなたたちに付き合う暇なんてないわ。健康診断の結果もない男なんて、怖くて触れないし」
意味深に、拓海を一瞥した。
――昨日、車の中であれだけぐちゃぐちゃになるまでキスしておいて。
そのくせ今は、由佳と仲良くしてる。
想像するだけで胸がむかつく。
拓海の口角がわずかに引きつり、周囲の空気が一気に重くなる。黒い瞳が、湿った底のない湖みたいに芽衣を見据えた。
――いつから、こんなに図太くなった。
芽衣は二人に構わず、踵を返して歩き出す。
由佳が拓海の手を握り、甘ったるい声で言った。
「拓海、もういいよ。あの人のこと、相手にしないで。帰ろ?」
二人が去ろうとした、その背に別の声が掛かる。
「拓海?」
振り向いた拓海の視界に入ったのは、院長の田中浩太郎だった。
隣には白衣の女医が付き添い、二人でこちらへ歩いてくる。
「田中院長。いつ帰国されたんですか」
「うちの病院の名医がね、三年ぶりに戻ってきたんだよ」田中浩太郎は朗らかに笑った。「飛鳥が今日は顔を出すっていうから、帰ってきてるなら引き留めようと思ってね。復帰の気があるかどうか、様子見さ」
そう言って、視線が由佳へ落ちた。
「今日は……奥様を?」
由佳の頬がぱっと染まり、嬉しそうに目を伏せる。
――その呼び方、好き。
芽衣はすぐに追い出される。そうなれば、髙野拓海の奥様は名実ともに自分だ。
しかし拓海は、田中の言葉を否定も肯定もしなかった。
「手の症状が昔からあるんです。最近ぶり返したので、検査に」
田中の隣の女医が、ふと思い出したように言う。
「カルテ、拝見してもいいですか?」
由佳は黙って差し出した。
女医は目を走らせ、やはりという顔になる。
「やっぱり。今日ちょうど、この症例の話をチームでしていたんです。まさか患者さん本人に会うなんて」
由佳の病状は、発作的に出る厄介なものだった。
時期を選ばず、出ると手がだるくなって、こわばりも強くなる。
「髙野さん、いい知らせがあります」女医が微笑む。「私の後輩が飛鳥なんです。彼女なら、治せる可能性が高いと思いますよ」
田中浩太郎も大きく頷いた。
「そうそう。彼女が三年前に突然引退しなければ、当時の段階で君たちに紹介できたかもしれないのにね」
由佳の目が輝き、拓海を見上げる。
「拓海、治るって……私の手、治るって!」
拓海は眉をわずかに上げた。
由佳の手が治るなら、それは彼の願いでもある。
あの手は、昔――彼を庇ったせいで傷を負ったものだ。ずっと、負い目があった。
「いくらでも払う。由佳を診てくれるなら」
淡々と言い切る。
女医が拓海に飛鳥のLIMEを渡した。読み取ると、名刺が表示される。
アイコンはクチナシ。表示名は、たった一文字。
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拓海が申請を送るのを、由佳が覗き込んだ瞬間、胸の奥がちくりとした。
飛鳥って、女?
しかも女医の後輩なら若いはずで、それでいて腕がある――。
由佳の中で、見えない敵意が一気に膨らむ。
一方、芽衣は病院を出てマンションへ戻ると、先輩たちにもらった医療プロジェクトの資料をテーブルに放り投げ、ソファに身を投げ出した。脚を伸ばし、だらり。
スマホを取り出し、三年ログインしていなかったアカウントに切り替える。
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結婚してから、以前のアカウントには一切触れていなかった。
切り替えた途端、ピン留めされたグループ『幸せな家族』が、通知をひっきりなしに吐き出す。
芽衣は開いて、指で下へ滑らせた。
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【みんな、出てこい】
【結婚に浸って三年消えてた飛鳥、帰還でーす】
【後輩、夫婦生活にボコボコにされてようやく戻ってきたか】
【男なんかより仕事だろ。戻ってこい、一緒にでかくしようぜ】
芽衣は吹き出しそうになりながら、適当に返信をいくつか送って画面を戻した。
そこで、新しい友だち申請に気づく。
開いた芽衣の指が、ぴたりと止まった。
申請者は――髙野拓海。
