第3章
藤沢茜視点
キャンパス近くのコーヒーショップは、いつも通り満席だ。
私はぬるくなったラテを片手に、隅の席にうずくまっている。この一時間、スケッチブックはずっと同じ白紙のページを開いたままだ。鉛筆は少しも動いていない。最近、何にも集中できないでいた。
「……だから言っただろ、高田真琴とL市から来たあの女の人? 絶対お似合いだって……」
空中で私の手が止まる。
後ろのテーブルに座っているのは建築学科の学生二人組で、その声は私の肩越しにまっすぐ届いてきた。
「あの人、見たことある? ほんとすごいんだから。国際的な建築家で、まだ三十そこそこよ? 信じられないでしょ」
「それに、何年も前から高田くんのことが好きだったって噂だぜ。今、B市に戻ってきたってことは、まあ、そういうことだろ……」
「二人とも建築の天才だし。一緒に仕事してるとことか、なんかもう恋愛映画の一場面みたいなんだよ」
「だよな? 昨日アトリエで見たんだよ。彼女が高田さんの肩に寄りかかって設計図を覗き込んでてさ、あの雰囲気」
笑い声が響く。
指から鉛筆が滑り落ちた。
「待てよ、高田くんって、あの美術学科の子とすごく仲良くなかったか? ほら、色のあれやってる子」
「藤沢茜のことか? よせよ、ただの幼馴染だろ。L市から来たあの女性こそが、高田くんにふさわしいんだよ」
コーヒーカップが傾く。黒っぽい液体がテーブルにこぼれ、スケッチブックのページに染み込んでいく。
「しまった、ノートが」
私はもう立ち上がっていた。バッグを掴み、椅子を押し分けて進む。ドアが背後で閉まると、私は外にいた。冷たい十一月の空気を必死に吸い込む。
それからの日々は、ぼやけて過ぎていった。
真琴からメッセージが来る。卒業制作で手一杯だと返す。
彼が私のアトリエに現れる。クラスメイトに頼んで、図書館にいると伝えてもらう。
昼食に誘われる。松本先生に用事があると言う。
嘘が、次から次へと積み重なっていく。
「藤沢茜、今週ずっと俺のこと避けてるだろ」
五日目のことだった。授業の合間の廊下で真琴に捕まり、もう逃げ場はなかった。
「避けてないよ」私は彼の肩越しに壁を見ながら言った。「本当に忙しいだけ。卒業制作のことで」
「なら、手伝うよ」
「必要ない」私は彼の言葉を遮った。「これは、自分でやらないと」
彼は眉をひそめている。「本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ、真琴」私は笑顔らしきものを作ってみせた。「集中しなきゃいけないだけ。あなたも自分のプロジェクトがあるでしょ? 絵美さんと一緒のやつ」
彼女の名前を出した瞬間、彼の表情に何かがよぎった。
「あのプロジェクトのことなんだけど……茜、実は」
「本当にもう行かなきゃ」私は言った。「先生が待ってるから」
彼が何か言う前に、私は背を向けて歩き出した。
角を曲がったところで、壁に背中を押し当てて目を閉じる。
この方がいい。距離を置いた方が、いい。
先に私から離れれば、いつか彼が彼女を選んだ時、傷つくのは少しで済むはず。
でしょう?
時計が九時を指した頃、アトリエのドアが開いた。
顔を上げると、そこにいたのは真琴だった。テイクアウトの袋と、私の大好きなホットチョコレートを手にしている。今週は一度も会っていなかった。もう私を諦めてくれたのかもしれないと思っていたのに。
「話がある」彼は作業台の上に袋を置いた。
「真琴、今は――」
「じゃあ、いつならいいんだ?」彼は私に向き直る。「俺を避けてる。そんなことないなんて言わせない」
私は唇を噛んだ。
「どうして?」彼の声が少しだけ震える。「俺、何かしたか?」
「してない。あなたは何も」痛むのをこらえながら、彼の顔をまっすぐ見る。「卒業制作に埋もれてるだけ。それだけだよ」
彼は、何もかも見透かすようなあの瞳で私を見ている。わかっているのだ。
「もし何かあったなら――」
「何もないって」私は背を向け、作業台から彫刻刀を手に取った。「もう行った方がいいよ。今夜中に仕上げなきゃいけないことがたくさんあるから」
沈黙。
彼が背後で立ち尽くし、何を言うべきか考えているのがわかる。
行って。お願いだから、私が壊れてしまう前に行って。
「わかった」静かな声だった。「でも、何かあったら話せるってこと、忘れるなよ。何でも」
私は振り向かずに頷いた。
「じゃあ、明日。クリスマスイブだ」
彫刻刀を握る手に力が入る。「実は、ここに残るかも。この締め切りが――」
「茜」彼の声に、何かが砕けるような響きが混じった。「クリスマスイブだぞ。母さんが、君の好きなケーキを作ってくれてるんだ」
私は目を閉じた。「わかってる。ごめん。行けるように頑張る」
再び沈黙。
足音。ドアが開く音。
「まだ温かいから」と彼は言った。「ちゃんと食べろよ、いいな?」
ドアが、カチリと静かに閉まった。
私は作業台の上の容器をただ見つめて立ち尽くしている。ホットチョコレートからは湯気が立っている。私がホイップクリーム増しが好きなのを知っていて、彼がいつも買ってくる、あのブレンドだ。
彼は、全部覚えている。なのに私は、彼が問題であるかのように突き放している。
私はスツールにどさりと腰を下ろした。私、何をやっているんだろう?
これが真琴なのだ。子供の時からずっと私をかばってくれた男の子。彼の両親が、うちに一緒に来ないかと尋ねてくれた時に、私の手を握ってくれた人。私を一度も壊れた人間だと感じさせたことのない人。
そんな彼に、私は怖いというだけで、真正面から嘘をついている。
彼を失うのが怖い? もう失いかけているじゃないか。絵美さんと、彼らが一緒に築き上げている完璧な何かに。
テーブルの上でスマートフォンが震えた。
真琴が戻ってくると言ってくれているんじゃないかと期待して、それを掴む。
彼ではなかった。
「N市デザインインターンシップ参加者面接のお知らせ」
一ヶ月前に送った応募書類だ。
N市。私の、逃げ道。
興奮するべきなんだろう。これは現実だ。やり直すための、本当のチャンス。
なのに、ただ虚しいだけだ。
アトリエが急に違って見える。隅に置かれた失敗作の絵画。棚に並んだ私の彫刻。タブレットに表示された、私を嘲笑うかのようなあの色のアプリ。
ここで過ごした四年。高田家で過ごした十五年。
そして私は、そのすべてから逃げ出そうとしている。
テイクアウトの食事はテーブルの上で冷めていく。真琴の優しさが、私が見ている間に冷たくなっていく。
明日、私は高田家で彼の両親と笑い合い、すべてが普段通りであるかのように振る舞うことになっている。
でも、できない。心が砕け散りそうなのに、そんなふりをして座っているなんてできない。私が何を計画しているか知りながら、真琴の顔を見ることなんてできない。
手放す方法を、学ばなければ。
たとえ、それが私を殺すことになったとしても。
