第1章

「セリーナ……本当に、ドラコのこと……もう、完全に好きじゃないの? それで政略結婚までする気?」

 大魔女のマヤが背後に立ち、その声には心配と戸惑いが滲んでいた。

 私は魔法のローブをトランクへ押し込み、顔も上げずに言う。

「もうその人の話はやめて、マヤ。あいつには……何の感情も残ってない」

「でも、あなたはあの人のためにどれだけ……!」マヤの声が跳ね上がる。

「あなたは『魔女の心臓』を半分、捧げたのよ! それは魔女族にとって、いちばん貴重な力の源泉なのに!」

 マヤは諦めきれないのか、魔法で鏡像を凝結させた。私の犠牲を思い出させるために。

 鏡の中に映ったのは、六年前――深淵の戦場。

 血にまみれた私が銀の刃で自分の胸を裂き、脈打つ半分の心臓を、瀕死のドラコの身体へ押し込んでいく。

 私は、その『喜んで差し出していた自分』を見つめ、ただ愚かだと思った。

 マヤはなおも続ける。

「それに、この六年の戦争だって。彼に王権を取らせるために、あなたはどれだけ犠牲にした? 戦いのたびに先頭に立って、彼の代わりに致命傷を受けて。交渉のたびに魔力を削って、有利な条件を引き出して。毎回、毎回――」

「もういい」

 遮った瞬間、自分でも理由のわからない苛立ちが胸を刺した。

 そう、覚えている。全部。

 けれどドラコへの感情を失ってしまった今となっては、あれらは他人の物語みたいに遠くて、滑稽で、うんざりするだけだ。

「マヤ。全部、過去の話」私は荷造りを続ける。

「今の私は、ここを出たい。それだけ」

 マヤは深く息を吸い、言い方を変えて迫った。

「たとえドラコに気持ちがなくなったとしても、そんなに急いで政略結婚を決めるなんて――」

「どうでもいい。誰に嫁いだって同じ」

「セリーナ!」マヤはさらに焦った。

「銀狼族のカール伯爵がどんな男か知ってるの? 極地でいちばん冷酷無情な狼王よ。噂じゃ、婚約者を三人も自分の手で引き裂いたって――そんな男、伴侶にしちゃだめ――」

 答えようとした、そのとき。

 扉が勢いよく押し開けられた。

「伴侶、だと?」

 入口から響いたのは、ドラコの冷えきった声だった。

 ドラコはアイビーを抱き寄せたまま入ってくる。かつて私の心を揺らした暗金の瞳には、いら立ちしか浮かんでいない。

 アイビーがすぐに指先でドラコの胸をつつき、甘ったるい声を作る。

「まあ、あなた。きっと明日の戴冠祭の段取りの話よ~。あなたの伴侶として、セリーナも私も、しっかり準備しなきゃね」

 小首を傾げて私へ笑いかけた。

「……そうよね、セリーナ?」

 私は鼻で笑う。

「伴侶はあんたでしょ。私は違う」

 ドラコの顔色が一瞬で沈んだ。

「セリーナ。アイビーは十分に譲歩している。王后の座を二人で分けると言っているんだ。それで何が不満だ?」

 鼻を鳴らし、言い捨てる。

「明日の式典は大人しく出ろ。くだらない意地を張るな」

 マヤが怒りで震え、私が忘情薬を飲んだことを告げようとした瞬間、アイビーが言葉を被せた。

「あらぁ、セリーナの首飾り、すっごく綺麗~」

 アイビーは近づき、私の胸元――月光石のネックレスに視線を吸い寄せる。

「この月光石って、心を落ち着かせる効果があるんでしょう? 最近、妊娠のせいで眠れなくて……私もそんなのがあったらいいのに……」

 弱々しくドラコの肩にもたれた。

 私は首飾りを見下ろす。

 十八の成人のとき、ドラコが極北の氷淵の奥底から持ち帰り、一か月かけて彫ってくれた――誓いの証。

「アイビーに渡せ」

 ドラコがためらいなく命じた。

 笑うしかない。相変わらず、命令するのが当然だと思っている。

「嫌」

 ドラコの表情が険しくなり、大股で詰め寄る。手を伸ばし、奪い取ろうとした。

 反射的に私は魔力で身をかわす。

 紫の光がぱっと弾け、部屋の空気を震わせた。

 次の瞬間、アイビーが可愛らしい悲鳴を上げて倒れ込む。ちょうど拡がった魔力の波に『ぶつかった』かのように腹を押さえ、苦しげに喘いだ。

「わ、私の子……ドラコ、私の子が……」

「アイビー!」

 ドラコの顔色が激変する。

 直後、凄まじい竜威が私へ叩きつけられた。

「――っ!」

 身体が浮き、壁へ激突する。喉の奥が熱くなり、血を吐いた。

 マヤが悲鳴を上げて駆け寄り、私を支えながらアイビーを指さして怒鳴る。

「演技よ! 今の、かすってもいないじゃない!」

「黙れ」

 ドラコの瞳に暗金の火が燃え上がった。

 彼は私の前まで来ると、手を振り抜く。

「ぱんっ!」

 頬が横へ弾かれ、口の端が切れて血が滲む。

 耳の奥がじんじん鳴り、半分の顔が灼けるように痛い。

「セリーナ。お前の一族を躾けろ」ドラコは氷のように言った。「アイビーと子に手を出すなら、魔女族ごと葬る」

 私は口元の血を拭う。

「安心して。これからは、あなたたちから遠く離れて生きる」

「まだ口答えするか!」

 ドラコはさらに怒り、乱暴に私の首からネックレスを引きちぎった。そして壁炉の炎へ放り込む。

 それからアイビーを抱え、振り返りもせず去っていった。

 私は呆然と、月光石が炎の中で溶け、星屑みたいに散って消えるのを見つめた。

 ――いい。これで、全部清算だ。

 マヤが私を起こし、嗚咽混じりに言う。

「ごめんなさい、セリーナ……私が余計なことを……」

 私は首を振った。

「あなたのせいじゃない」

 身体の傷は痛むのに、心は異様なほど静かだった。

 マヤはさらに泣き崩れる。

「最低な竜族……! 離れなさい、セリーナ! 絶対に離れるのよ! いつか必ず、あいつは後悔する!」

 私は彼女の肩にもたれ、壁炉の灰を見つめる。

 後悔?

 それが、私に何の関係がある。

 忘情薬はもう効いている。ドラコへの愛なんて、きれいに剥がれ落ちた。

「あと三日」目を閉じる。

「三日後、ここを出る」

 二度と、戻らない。

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