第2章
セリーナ視点
今日はドラコの祝賀の夜。
そして――私が「第二王后」として戴冠する日でもある。
鏡の前で礼装に着替えながら、首元の水晶のネックレスを指でなぞった。銀狼族がさっき届けてきた贈り物。いざというとき、瞬時に安全な場所へ転移できるらしい。
そのとき、扉が勢いよく開いた。
入口に立つドラコの視線が、私の露わになった背中へ落ちる。肩には北境氷原の戦役で射抜かれた矢傷。腰の脇には暗影森林の包囲戦で焼かれた魔法の痕。背中一面は古傷と新しい傷が幾重にも重なり、消える気配もない。
「その傷……まだ治ってないのか」声が少し掠れていた。
「聖水の薬を渡したはずだろ」
「あなたの負傷兵に使った」私は淡々と背中のファスナーを引き上げる。
「それで、何の用?」
ドラコは少し黙り、口調を和らげた。
「昨日は……俺が短慮だった。今夜の祝賀が終わったら、南境の魔法鉱脈を三つ、お前の名義にする。深淵の戦利品にあった永遠の心も、お前に渡す」
一拍置いて、続ける。
「ただ、儀式では協力してくれ。先にアイビーが戴冠、その次にお前だ。龍族の長老たちが『正妃が先』だと言ってる。決まりなんだ」
叩いてから飴をくれるつもり?
「補償なんていらない」私は振り返って彼を見る。
「誰を先にしたいなら勝手にすれば。どうせこの儀式、最初からアイビーのためのものだったんでしょ」
この六年、私は何度も伴侶の儀を求めた。どんなに簡素でもいい。ただ、族に私たちの選択を認めさせたかった。
でも彼は、そのたび先延ばしにした。
「戦争が終わったら」「俺が戴冠したら」「お前に恥はかかせたくない」
今なら分かる。彼はただ、アイビーが戻るのを待っていたのだ。
「セリーナ……どういう意味だ」ドラコが私の冷淡さに苛立つ。
「言葉どおり」私は礼装の皺を整える。
「もう疲れた。こんな芝居、続けたくない」
「芝居?」危うい細さで目を眯めたドラコが、部屋を見回し――次の瞬間、顔色を変えた。
私たちの戦いの記憶を背負った品々が、きれいさっぱり消えている。
深淵の戦場で私が彼のために奪い返した龍族の聖剣。北境氷原で肩を並べたときの作戦地図。暗影森林で彼が重傷を負い、私が三日三晩付き添った血塗れの外套。彼が龍鱗で手ずから作ってくれた護符――すべて、ない。
「……どこへやった」ドラコの声が張り詰める。空になった棚の前まで大股で詰め寄った。
「あれは全部、どこへ行った?」
「捨てた。ゴミでしょ」
「ゴミだと?」彼が振り向きざま、私の手首を掴んだ。
「あれは俺たちが共に戦った――」
「共に?」私は乱暴に振りほどき、扉へ向かう。
「やめて。大事にしてるふり、見え透いてる」
――
祝賀の大広間は、金と光で眩むほど煌びやかだった。
私はひとり、隅の影に身を沈める。ドラコはアイビーの手を取り、各族の祝辞を受けていた。
マヤが横へ来て、歯を食いしばる。
「なに、これ……セリーナ、よく耐えられるね。私ならとっくにここを燃やしてる!」
私は血のように赤い酒を揺らした。
「計算する価値もない。どうせ、私は出て行くから」
高壇のほうがざわついた。盃を持った女中がよろめき、アイビーへぶつかりかける。ドラコが咄嗟に女中を突き飛ばしたが、アイビーは身軽に身をひねり、完璧に避けた。
直後、ドラコは激昂し、女中を引きずって下がらせて重罰を命じた。
私はアイビーの腹に目を凝らし、眉をひそめる。
妊娠五か月で、あそこまで動ける? それに腹の輪郭が……今、ずれたように見えた。
視線に気づいたのか、アイビーの表情がわずかに揺れた。
それでも彼女は笑みを貼りつけ、こちらへ歩いてくる。
「セリーナお姉さま、こんなところでおひとりだなんて退屈でしょう」小腹を撫で、挑発するように言う。
「前へ出ません? 今日はあなたにとっても特別な日ですもの」
私はグラスを置き、さらりと返した。
「嫌われに行く趣味はないの。……それより、さっきの身のこなし、ずいぶん良かったね」
アイビーの顔が、瞬時に固まった。
私は身を寄せ、声を落とす。
「妊娠五か月なら、そんなに軽やかに動けないはず。しかも――さっき、あなたのお腹、位置が動いた」
彼女は下唇を強く噛んだ。やっぱり。
「王后戴冠の儀、ただいまより開始!」
司会の声が、私たちの間を切り裂いた。
アイビーは私を睨みつけ、慌ただしく戻っていく。
ドラコがアイビーの頭に王冠を載せる。九百九十九の星辰宝石を嵌め込んだ王冠――その一粒一粒が、私が深淵の戦場から持ち帰った戦利品だった。
今は、あの女を飾るために使われている。
各族の使節が、次々と贈り物を捧げた。
「深海人魚族より、万年海神の涙! 母子の安寧を!」
「精霊族より、世界樹の枝葉! 命を育む至宝を!」
「ドワーフ族より、龍骨で組み上げた揺り籠! 未来の小王子へ!」
どれもこれも、ドラコがアイビーのために用意させた品だ。
アイビーは愛らしく笑って受け取り、得意げに私へ視線を投げた。
「皆さま、ありがとうございます。私は本当に幸せ……ドラコも、皆さまの祝福も、そして私たちの子も……」
ドラコは甘く目を細め――ふいに、影の私を見た。
ほんの一瞬、罪悪感がよぎり、彼は手を伸ばす。
「セリーナ、こっちへ――」
「きゃあっ!」
アイビーが突然悲鳴を上げ、後ろへ崩れた。唇から黒い血が溢れ出す。
大広間は一瞬で混乱に沈んだ。
ドラコはアイビーを抱き上げて駆け出し、祝賀はなし崩しに終わった。
隅に、もう一人の王后が立っていたことなど――誰も気に留めない。
でも、もういい。
――
部屋へ戻り、私は前もってまとめておいた旅鞄を掴んだ。出て行くために。
「ドンッ!」
扉が蹴破られ、ドラコが突進してくる。彼は私の手から鞄を蹴り飛ばした。
「クズが逃げるつもりか?」目は真っ赤で、怒りに濁っている。彼の手が私の喉を掴んだ。
「セリーナ、アイビーは魔女の血呪毒だ。王国であの魔法を扱えるのはお前だけだろうが!」
「……違う。私じゃ――」
「黙れ!」握力が増す。
「毒にはお前の魔力の痕跡がある。証拠は揃ってるのに、まだ言い逃れするのか!」
息が詰まり、私は掠れた声を絞り出した。
「それは……嵌められた。そもそも、彼女は妊娠なんて――」
「まだ嘘を重ねるのか!」ドラコは私を床へ叩きつけた。
「――っ!」
後頭部が床に打ちつけられ、視界が白く弾ける。
「龍族の祭司が検めたんだ!」彼の足が私の腹を蹴り抜く。
「お前は嫉妬したんだろう、あいつが俺の子を宿したから! だから毒を盛った!」
「……っ、ぐ……!」
口の中に鉄の味が広がり、腹の奥が裂けるように痛む。
「王后にしてやると言った!」彼は髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「南境の魔法鉱脈も、永遠の心もくれてやると言った! それでもまだ足りないのか!」
拳が頬に叩き込まれる。
「王后の座を分け合うだけでも不満か! なぜアイビーに毒を――!」
骨が軋み、内臓がずれる感覚。腹の痛みはどんどん強くなり、温かいものが脚を伝って落ちていく。
「ドラコ……聞いて……」私は震える声で言った。腹の痛みが、ただごとじゃない。
けれど言い終える前に、また拳が落ちた。
意識が闇へ沈む直前、氷のように冷たい声が耳へ刺さる。
「こいつを氷牢へ。俺の許可があるまで、誰も面会を許すな」
