第4章

セリーナ視点

「忘情薬……」

 ドラコの声が震えていた。

 ここ数日、セリーナが自分を見る目が脳裏をよぎる。冷たく、遠い。まるで吐き気を催す他人を見るような視線。

「そんなはず……」彼は呟いた。

「あいつは俺を愛してた……心臓まで捧げたんだ……」

「それが何?」マヤが鼻で笑う。

「あんたは自分の手であの子の子どもを殺して、残った半分の心臓まで抉り取った。そんな男を、どうして愛し続けなきゃならないの?」

 ドラコは氷牢へと突進した。

 がらんどうの石室に残っていたのは、床一面の血痕だけ。胸を裂かれて流れ出た血。下腹から失われた命の痕。

 彼は血の海に膝をつき、両手を震わせた。

 子ども……俺たちの子ども……

「陛下!」竜族の将軍ギャレスが駆け込んでくる。

「銀狼族が政略結婚の告知を出しました! 大陸中が知っています、セリーナはカールに嫁ぐと!」

「転送陣を用意しろ。俺は極地へ行く」ドラコは立ち上がった。

「正気ですか!?」ギャレスが腕を掴む。

「深淵戦争が終わってまだ二か月です。竜族は半数以上が戦死、これ以上戦える余力なんて!」

「知るか——」

「我々は知る」杖をついた竜族長老エルドリックが入ってきた。背後には十数名の長老たち。

「銀狼族は極地の深淵入口を守っている。兵は我々の三倍。今あなたが乗り込んで縁談を問い質せば、それは宣戦布告だ」

「セリーナは俺の女だ!」ドラコが吠えた。

「あなたが自分で突き放した女だ」エルドリックは氷のように言い放つ。

 ドラコの喉が詰まった。

 ギャレスが困惑した顔で問う。

「陛下……ここ数年、陛下はあの方を愛していないと……皆そう思っていました。魔女族の力を利用するために婚姻を結んだだけだと。なのに今さら連れ戻すと?」

 ドラコは言葉を失った。

 そうか。誰もがそう見ていたのか。俺はセリーナを愛していない、利用しているだけだと。

 だが俺は……俺はただ……

 六年分の記憶が突き刺さる。セリーナが命懸けで戦い、血の中に倒れるたび、俺は当然のように戦利品の確認と次の戦の布陣に追われ、彼女の傍で足を止めたことがない。

 伴侶の儀をしたいと、彼女が恐る恐る切り出した夜も何度もあった。俺は苛立ちを隠さず、適当な理由を並べて追い払った。

 戦勝の宴で、俺が皆の前でアイビーを娶ると宣言したときの——セリーナの絶望した目。

 結局、俺はそういう男だったのだ。利用するだけで、何ひとつ大事にしない屑。

 その事実に、今さら気づくほど俺は鈍かった。

「それに、彼女は子どもを失ったばかりです」ギャレスは首を振る。

「戻ってくるはずがありません」

「それだけではない」エルドリックが重く息を吐く。

「魔女の心臓を二度も剥がされた者が、生き延びられる道理がない。セリーナは……おそらく……」

「違う!」ドラコが怒鳴りつけた。

「あいつは死なない!」

 彼は黒竜へと姿を変え、空へ飛び立つ。

 だが竜宮を出た瞬間、複数の長老の魔法が絡みつき、その巨躯を空中で縛り上げた。

「陛下! 落ち着いてください!」

「竜族のため、どうか思い直を!」

 ドラコは狂ったようにもがき、竜威が暴走して王宮全体が震えた。

 それでも最後にはねじ伏せられ、王宮の最奥へ幽閉された。

――

 極地、銀狼族の領地。

 冷たい。

 目覚めて最初にそう感じた。

「起きたか」

 低い声が耳元に落ちる。

 目を開けると、角ばった輪郭の男の顔があった。銀の長髪、氷のような青い瞳。狼王特有の、野性の威圧。

 カール。

「わたし……」起き上がろうとして、身体が言うことをきかない。

「動くな」カールが支え、枕を高くしてくれる。

「三日間、昏睡していた」

 三日……

「本当なら、死んでるはず」胸を押さえて苦笑した。そこは空っぽで、何も感じない。

「魔女の心臓が……」

「竜に奪われた」カールの声に冷えが混じる。

「二度もな」

「……なのに、どうして生きてるの?」

 カールは少し黙ってから言った。

「月神の涙だ」

「え……?」思わず上体を起こしかける。

「あれを!?」

 銀狼族の至宝。命の根源を作り直すと伝えられる聖なる雫。銀狼族に一滴しかないと言われる、それを——ほとんど他人同然の政略結婚の相手に使った?

「正気じゃない!」声が震える。

「千年の伝承の聖物なのに——」

「分かっている」カールは肩に手を置き、氷青の瞳で真っ直ぐ見た。

「だが、おまえは俺の未来の伴侶だ。どんな宝より、おまえのほうが重い」

 言葉が、胸の奥に落ちた。

「カール……でも、わたしは流産したばかりで……身体だって……」唇を噛む。

「婚姻を取り消して、魔女族に別の人を——」

「なぜだ」カールが遮り、眉を寄せる。

「俺がそんなことを気にするとでも?」

「だって、もっと——ちゃんとした、もっと良い人を——」

「五年前、北境森林の戦い」カールが唐突に言った。

 首を傾げると、彼は遠い目をした。

「あの戦で、ひとりの魔女を見た。全身血だらけで、深淵の魔獣を三体相手にしていた。魔力は尽きかけているのに、背後の負傷兵を守り続けていた」

「法衣は裂け、肩は噛み千切られて血が噴き出していた。それでも目が……あの揺るがない強さが……」

 カールはわたしを見据えた。

「あの瞬間、分かった。俺が欲しい伴侶は、そういう女だ」

 息が止まる。

「後で知った。あの魔女はおまえだった」彼は続ける。

「だが、おまえの目にはドラコしかいなかった。戦が終わるたび、真っ先に駆け寄る相手も。矢を受けてやるのも、傷を癒やすのも、魔力を削ってでも支えるのも……全部、あいつだった」

「俺は、ただ見ているしかなかった」

「おまえが忘情薬を飲んだと聞いて、ようやく縁談を申し出た」カールが手を握る。

「おまえの心にあいつがいる限り、俺を見ないと知っていたからだ」

 視界が滲んだ。

「でも、今のわたしには何も……」喉が詰まる。

「魔力も、子どもも、心臓も……全部なくなった……もう戦場の魔女じゃない……」

「それでも、おまえはおまえだ」カールが身を屈め、額をそっと重ねる。

「魔力を失って何だ。心臓を失って何だ。生きている。それで十分だ」

「カール様!」扉の外から侍女の声が飛んだ。

「お薬、煎じ終わりました!」

 カールは身体を起こし、耳のあたりがわずかに赤い。

「入れ」

 侍女が薬椀を運んで入ってくる。わたしが目覚めているのを見ると、ぱっと顔を明るくした。

「奥様、ようやく! この三日、カール様はずっと付き添って、目も閉じていらっしゃらなくて!」

「いい。置いたら出ろ」カールの声が固い。

「はいはい」侍女はこっそり笑い、出ていく間際にわたしへウィンクしてみせた。

 カールを見つめると、胸の奥に、言葉にできないものが湧いてくる。

「……ずっと、いてくれたの?」

「ん」彼は薬椀を受け取り、ふう、と息で冷ました。

「目が覚めないかと思った」

「どうして、こんなに……」

 カールは薬を一口飲ませてから言う。

「今日からおまえは俺の伴侶だ。守るのは当然だ」

 窓の外では、極地の雪がしんしんと舞っていた。

 遥か彼方の竜族王国では、ドラコが密室で絶望の咆哮を上げているのだろう。

 ——その声が、ここまで届くことはもうない。

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