第4章 手加減?
松本明霞が金に目がないことは、相馬寧もよく知っている。
夏目茉莉がその好みに合わせてくるのも、別段驚きはしなかった。
ほどなくして、あの高価な宝飾品は松本明霞の手でしまい込まれる。
守屋蒼河が次にローテーブルへ置いたのは、碁盤だった。
相馬寧は昔から知っている。守屋蒼河は碁が好きで、ふたりはよく盤を挟んで打ち合った。
彼が相馬寧を口説いていた頃には、こんなことを言っていたのだ。
――君と対局している時間が、いちばん楽しい。好敵手で、心が通じ合う相手だ。人生の喜びって、きっとこういうことだろう。
けれど今となっては、夏目茉莉にも同じ台詞を吐いているのだろうと思えてしまう。
「蒼河兄さん、ほんとわかってる」
夏目茉莉の甘く柔らかな声が響く。
「碁盤なんて出されたら、手がうずいちゃう。ねえ、私と一局やろ?」
守屋蒼河は笑いながら彼女の鼻を軽くつまんだ。
「おまえはまだ下手だろ。負けたらまた泣くんじゃないか? そのたびになだめるの、誰だと思ってる」
「じゃあ、相馬姉さんに相手してもらおうかな」
夏目茉莉はふいに顔を上げ、廊下の角にいる相馬寧へ視線をぴたりと合わせた。瞳の奥で、見えにくいほど薄い挑発が一瞬だけ走る。
「相馬姉さん、碁がすごく強いんでしょ? 蒼河兄さんに鍛えられたって聞いたの。ちょうどいいし、教えてもらいたいな」
その一言で、全員の目が一斉に相馬寧へ向いた。
相馬寧はわずかに目を見張る。
この様子だと、夏目茉莉は最初から自分がここにいると知っていたのだろう。いったいいつ気づいたのか。しかも、今まで平然と演じていた。
宝飾品を片づけたばかりの松本明霞がその光景を見るなり、顔を露骨に曇らせた。
「どうしてあなたが来たの?」
まるで相馬寧が最初からこの家の人間ではないと言いたげな口ぶりだった。
――まあ、間違ってはいない。
もうすぐ離婚するのだ。自分にここでの居場所など、あるはずもない。
相馬寧はゆっくりと階段を下り、守屋蒼河へ視線を投げた。
珍しいことに、彼の表情に一瞬だけ後ろめたさが滲む。無意識に数センチ横へずれて、夏目茉莉との距離を取ろうとしたようにも見えた。
だが、その程度の間合いなら、ないほうがまだましだ。
結局、離れられないだけなのだから。
「忘れ物を取りに来ただけ。すぐ帰るわ」
相馬寧の声はあくまで平坦だった。
「続けて。邪魔はしない」
「せっかく来たんだから、茉莉の相手くらいしなさい」
松本明霞の声音は、相談でも頼みでもない。完全な命令だった。
相馬寧が動かないのを見ると、眉をつり上げる。
「茉莉がわざわざ来てくれてるのよ。少し付き合うくらい何が悪いの? ほんと、器が小さいわね」
器が小さい。
相馬寧は危うく笑いそうになった。
言外の意味はわかる。空気を読んでさっさと身を引け、妻の座を空けろ――そういうことだ。
相馬寧は松本明霞を無視し、守屋蒼河を見た。
かつて骨の髄まで愛した男が、今ここで何を言うのか。それだけが知りたかった。
守屋蒼河は彼女の視線を避けるように咳払いをひとつし、やや強い声を作った。
「寧々。一局くらいなら時間もかからない。茉莉の相手をしてやってくれ」
「そうだよ、相馬姉さん」
夏目茉莉は無邪気な笑顔を貼りつける。
「私、ただ教えてほしいだけ。蒼河兄さんがあなたをあそこまで調教したんだもん、どれくらいすごいのか見たくなるでしょ?」
「調教」という二文字だけ、妙に強く噛んだ。
皮肉は誰の耳にも明らかだった。
相馬寧は構わずローテーブルの前へ腰を下ろす。
「寧々」
守屋蒼河が呼び止める。ためらいを含んだ声が、すぐに腹を括った響きへ変わる。
「茉莉は始めたばかりなんだ。少し手加減してやってくれ」
――手加減。
なんて都合のいい言葉だろう。
相馬寧も本当は打つ気などなかった。適当に数手置いて、さっさと負けて終わらせるつもりだった。
けれど、指先が碁石に触れた瞬間。
この五年、守屋蒼河と盤を挟んできた記憶が、雪崩のように押し寄せる。
眠れない深夜。薄暗いスタンドライトひとつだけを灯し、ふたりでソファに身を寄せ合ったこと。
囲碁から将棋へ。勝負から人生の話へ。あてもなく話を広げていった時間。
相馬寧は自分の魂の伴侶だと、彼は言った。
この世で自分の一手一手を、相馬寧ほど理解できる人間はいないとも。
なのに今、彼は別の女の隣に立ち、自分に向かって「譲ってやれ」と言う。
――滑稽だ。
相馬寧の眼差しはみるみる冷えていった。
石を置く速度が上がっていく。ほとんど考える間もなく、次の一手、さらに次の一手。
最初はにこにこしていた夏目茉莉も、すぐに笑みが引きつり、ついには完全に笑えなくなる。
盤上では、彼女の白石が相馬寧の黒石に四方八方から囲い込まれ、息をする隙もない。どこへ打っても道が塞がれる。
まるで精密に編まれた巨大な網へ、自ら落ちてしまったみたいに。
――どうして……?
夏目茉莉は唇を噛み、額に細かな汗を滲ませた。
パチ、と小気味よい音を立て、相馬寧はまた一石を置く。
「あなたの番よ」
夏目茉莉は歯を食いしばり、必死に踏みとどまろうとする。
だが、ものの3分も経たないうちに、盤面は見るも無惨なありさまになっていた。
白に活路はない。
勝ち負けの問題ではない。
完膚なきまでの圧殺だった。
松本明霞は碁などわからない。それでも「未来の嫁候補」がやり込められていることだけは理解できたのだろう、露骨に顔をしかめる。
守屋蒼河も眉間に皺を寄せ始めた。
相馬寧がもう一石を置く。
それで勝負は終わった。
「あなたの負け」
「相馬姉さん……すごい……!」
夏目茉莉は顔を上げたとき、目の縁を赤く染めていた。声は泣き出しそうに震える。
「私、全然かなわなかった。恥をかきに来たみたい……」
「ごめんなさい、相馬姉さん。そんなにきつくされるなんて思わなかったの。私、別に悪気なんてなくて……」
「寧々、どうしてそんなことをするんだ」
夏目茉莉が泣きそうになった途端、守屋蒼河がたまらず口を挟んだ。相馬寧へ向ける声は、露骨な非難に変わっている。
「君はもともと強いだろ。茉莉は初心者なんだ。どうしてここまで容赦なく叩きのめす必要がある? 少しくらい手加減できなかったのか」
相馬寧は顔を上げ、彼を見た。
その目は、底のない水面みたいに静まり返っている。
「どうして私が、あの子に手加減しなきゃいけないの?」
守屋蒼河は言葉に詰まった。
口を開いても、反論の理屈が見つからない。
そうだ。なぜ彼女が譲らなければならない?
ただ一局の碁の話なのか。
それとも――夫そのものを譲れという話なのか。
「ごめんなさい、相馬姉さん。全部、私が悪いの」
険悪になりかけた空気を感じ取ったのか、夏目茉莉が慌てて立ち上がる。
その拍子に、テーブルの茶杯へ手が当たった。
ガシャン――。
熱い茶が跳ね散る。
夏目茉莉が甲高い悲鳴を上げ、反射的に守屋蒼河の背後へ逃げ込んだ。
飛び散った湯の一部が相馬寧の腕にもかかる。
焼けるような痛みが走り、相馬寧は思わず息をのむ。
赤みが広がり、ひどいところは細かな水ぶくれまで浮き始めていた。
「茉莉、大丈夫か?」
守屋蒼河は相馬寧を見ることすらしない。真っ先に夏目茉莉の手を取って確かめる。
「火傷してないか? 痛くないか? ほら、すぐ冷やしてやる。吹いてやるから」
松本明霞まで慌てて寄ってくる。
「あらまあ! 茉莉の手は大事なんだから。痕でも残ったらどうするの」
「坂東さん、早く救急箱を!」
使用人たちは大慌てで夏目茉莉の周りに集まり、誰ひとり相馬寧には目を向けない。
気遣いのひと言すら、ない。
相馬寧は自分の腕に広がる生々しい赤みを見つめ、ふっと可笑しくなった。
けれど、もうどうでもいい。
相馬寧は静かに立ち上がり、そのまま外へ向かって歩き出す。
「待て!」
背後から、守屋蒼河の怒声が飛んだ。
