あの野郎が浮気した

あの野郎が浮気した

水無瀬 · 連載中 · 376.9k 文字

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紹介

夫の浮気を目撃した瞬間、私は泣きもしなければ叫びもしなかった。冷えたままの手つきで離婚届を偽の業務委託契約書に紛れ込ませ、彼に判を押させただけだ。あと三十日もすれば、彼は私を失う——ただ静かに、その時を待つ。

その足で、私は新たな職へと向かった。無愛想で、他人を一切寄せ付けないことで知られる男の、個人秘書として雇われたのだ。元夫が私を無理やり連れ戻そうとするたび、新しい雇い主は私の前に立ち塞がり、そして——私自身すら見えていなかった何かを見つめるような目で、私を見た。

「君は、これまで誰も本気で愛したことなどない」

彼は私にそう言った。

反論しようとして、しかし私は何も言えなかった。

なぜなら、ふと心に浮かんだからだ。夫に対して抱いていたもの——それは愛だったのか、それともただの慣れだったのか。そして、私と過去との間に立ちはだかったこの男に抱き始めているこの感情は……一体、何なのか。

チャプター 1

ひっそりとした路地裏に、耳をつんざくブレーキ音が響き、タイヤが地面の埃をぶわっと巻き上げた。

運転席では、女が青ざめた顔でハンドルをきつく握りしめている。力を込めすぎた指先は、じわじわと白くなっていた。

彼女の名は相馬寧。二十五歳。

そして三十分前、彼女は自分の夫――守屋グループ社長、守屋蒼河の浮気現場を、この目で見た。

三年の結婚生活は、彼が甘やかな顔で別の女を腕の中に抱き寄せた、その瞬間に完全な茶番へと成り果てた。

しかも相手の女は、相馬寧にとって見知らぬ存在ではない。

帝都の名家、夏目家の令嬢――夏目茉莉。

あの頃のことを思い出す。大学を出たばかりの彼女に、守屋蒼河は盛大なプロポーズをした。帝都で知らぬ者がいないほどの大騒ぎだった。

守屋蒼河は相馬寧を死ぬほど愛していて、彼女以外は妻にしない――誰もがそう信じていた。

けれど今、彼は別の女を愛している。

あるいは、その心の半分を、ほかの誰かに分け与えたと言うべきか。

騒ぐべきだろうか。

怒るべきだろうか。

それとも、悲しんで泣くべきなのだろうか。

たぶん、どれもできない。

静かに気持ちを整えると、相馬寧はスマホを取り出し、一件の電話をかけた。

コールがつながる。彼女は低く落ち着いた声で告げた。

「……守屋蒼河と離婚する件、承諾します」

電話の向こうで守屋の父が何か言ったのだろう。相馬寧は形のいい眉を寄せ、わずかに苛立ちをにじませる。

「ご安心ください。あの人には、きちんと離婚協議書に署名させます。でも、私に約束してくださったものは、そちらも必ずご用意ください」

それだけ言うと、通話を切った。

スマホをポケットへ戻そうとしたとき、ふと助手席の黄ばんだ紙袋が目に入る。相馬寧はそれを見つめ、何かを思案するように目を細めた。

二時間後。

守屋家の本邸。

守屋蒼河が扉を押し開けて入ってきたとき、彼は反射的にリビングのソファへ視線を向けた。だが、そこに相馬寧の姿はない。

いつもなら、帰宅するたび彼女はそこに座っていて、彼を見つけるなり笑顔で駆け寄ってくる。上着を受け取り、親しげに「疲れてない?」と声をかけてくれた。

けれど今夜は、そのどれもなかった。

守屋蒼河は伏し目がちになり、目の奥をかすめた感情を隠すようにコートを脱いで使用人へ渡した。そのまま靴を履き替え、二階へ上がる。

寝室の前まで来て扉に手をかけた、そのときだった。

隣の書斎から話し声が聞こえてくる。

彼は手を引っ込め、向きを変えて書斎の扉を開けた。

掃き出し窓の前で、相馬寧が電話をしていた。物音に気づいて振り向き、彼を見ると、一瞬だけ目を見開く。だが次の瞬間には、唇をやわらかく持ち上げて、ふっと微笑んだ。

「はい、木村社長。それでは、ご一緒できるのを楽しみにしております。こちら、少し立て込んでおりますので先に失礼しますね。何かありましたらいつでもご連絡ください。ええ、もちろんです。では、失礼いたします」

通話を終えた彼女は顔を上げ、先ほどまでの仕事口調をきれいに消して、ひどくやさしい声音で言った。

「お帰りなさい。どうして先に連絡してくれなかったの?」

その笑顔を見た瞬間、守屋蒼河の胸にあったわずかな違和感は、跡形もなく消え去った。

彼は彼女のもとへ歩み寄りながら、軽く笑う。

「驚かせたかったからな」

驚かせたかった――

相馬寧は心の中で冷たく笑った。

悪夢の間違いでしょう。

そう思っているうちに、彼はもう目の前まで来ていた。ポケットから上品に包装された小箱を取り出し、蓋を開ける。

中に収まっていたのは玉の腕輪。透き通るような艶を帯び、見るからに高価だ。

「出張先で見つけたんだ。君に似合いそうだったから買ってきた。手、出して。つけてやる」

相馬寧は小さくうなずき、手を差し出した。彼に腕輪をはめさせる。

――明らかに、サイズが大きい。

「……少し大きいのね」

何気ないふうを装ったその一言に、守屋蒼河の表情がかすかに揺れた。その変化を、相馬寧が見逃すはずもない。

ついさっき、夏目茉莉のSNSで見たのだ。彼女の手首には、これとまったく同じ腕輪があった。ただし向こうは鮮やかな翠色で、サイズもぴったりだった。

つまり――

自分のこれは、おまけということなのだろうか。

「このサイズしかなかったんだ。問題ないさ。小さいよりは、大きいほうがいいだろ」

守屋蒼河は笑ってそう言うと、すぐに話題を変えた。

「さっき、誰と電話してたんだ?」

相馬寧は手を引っ込め、彼に触れられた箇所を無言でそっと拭う。

「星月エンタテインメントの木村社長よ。次の企画がもうすぐ始まるらしくて、制作陣もいいし、主演も今伸びてる若手同士。ヒットの見込みがありそうだったから、守屋グループで衣装班と出資枠を取れないか掛け合ってみたの。ほら、契約書も届いてるわ」

そう言いながら、彼女は机の上の黄紙の封筒を手に取り、中から書類を抜き出した。

「ちょうど帰ってきたところでよかった。サインしてくれる? 明日、公証に回したいの」

守屋蒼河は疑いもせず、すぐにうなずく。

「いいよ」

そう言って書類を受け取ろうとした彼を見て、相馬寧はさっと彼をデスクチェアへ押し座らせ、契約書を署名欄のページに開く。さらにペンまで取って、目の前に差し出した。

「安心して。内容は全部確認済みよ。うちにとって損のない話だから」

その言葉に、守屋蒼河は考えることすらやめてしまった。

「……わかった」

彼は迷いなく名前を書き込む。

その瞬間、相馬寧の胸の中でひとつ、大きな石が音もなく落ちた。

彼女の目が一瞬だけ沈み、そのまま静かに書類を閉じて封筒へ戻す。

「もう気にしなくていいわ。あとは私が手配しておく。出張帰りで疲れてるでしょう? 先にお風呂に入ってきたら?」

守屋蒼河は立ち上がり、相馬寧の腰を抱き寄せると、その額に軽く口づけた。

「寧々。君がいてくれて、本当によかった」

ここまで守屋グループが大きくなれたのは、ずっと傍で彼を支え、策を授けてくれた相馬寧がいたからだ。

――それでも、彼は浮気した。

滑稽だ、と相馬寧は思う。

同じ空間にいるだけでも吐き気がするのに、親しげに触れられるなど耐え難い。それでも顔には何事もないふりを貼りつけ、平然としていなければならない。

本当に、虫唾が走る。

「じゃあ、先に入ってくる」

「ええ、いってらっしゃい」

守屋蒼河は本当に疲れていたのだろう。そのまま背を向けて出ていった。だから気づかなかった。振り返った瞬間、相馬寧の顔からぬくもりがすっと消えたことに。

やがて彼が浴室から出てきた頃には、もう相馬寧は家にいなかった。

残されていたのは、二十分前に届いたLINEだけ。

【伊希が失恋しちゃって。今夜は一緒にいてあげるね。あなた、先に休んでて】

それと、ほぼ同時に別のメッセージが一通。

【蒼河お兄ちゃん、会いたいよ。Starにいるの。来てくれる?】

気を取られた彼は、相馬寧の文面に潜む違和感にさえ気づかなかった。

彼女は普段、こんなふうにあからさまに「あなた」などとは呼ばない。

一方その頃――

Starバー。

少し奥まったボックス席で、星野伊希は向かいに座る相馬寧を見つめ、ふうっとため息をついた。

「男ってさ、ほんとみんな同じよね。そう思わない?」

ひとつだけ、相馬寧は守屋蒼河に嘘をついていない。

星野伊希が失恋した――それは事実だ。

ただし、長年の親友である相馬寧は、彼女が失恋するたびの惨状を何度も見てきた。

「その通りね。男なんて、みんな同じ」

相馬寧は皮肉っぽく笑い、グラスを手に取って一気にあおった。

ブブッ――

ポケットの中でスマホが震える。

彼女はグラスを置き、画面を確認した。差出人は知らない番号。本文はなく、添付された写真が一枚だけ。

薄暗い空間の中、きつく絡み合う男女の体。その影が壁に映っている。

誰が見てもわかる。

そこにあるのは、紛れもなく、ひどく親密な行為の気配だった。

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