第5章 交通事故
相馬寧は立ち止まらなかった。聞こえなかったかのように、そのまま歩き続ける。
だが守屋蒼河は追いつき、傷ついたほうの腕をつかんで、ぐいと強く引いた。
「止まれって言ってんだろ。耳が聞こえねぇのか!」
「放して」
相馬寧は痛みに眉をひそめた。けれど声は低く、ひどく静かで、骨の髄まで冷えるような冷たさを帯びていた。
その態度が、かえって守屋蒼河の癇に障った。
「相馬寧……どういうつもりだ」
「茉莉はわざとじゃない。あんなに怯えてるんだぞ。ひと言くらい慰めてやるべきだろ。顔色ひとつ見せずに、さっさと帰るって……そんな態度があるかよ」
相馬寧は、怒りで歪んだ守屋蒼河の顔をじっと見つめた。
ふと、現実感が薄れる。
――この男が、本当に自分が五年も愛した相手なのだろうか。かつて足元に跪き、一生守ると誓ったあの男が。
だとしたら、自分はずいぶん愚かだった。
「どうしてほしいの?」
相馬寧は落ち着き払った声で訊ねる。
「夏目茉莉に謝れって?」
「おまえ……!」
守屋蒼河は言葉に詰まり、そのぶん無意識に手に力がこもった。
相馬寧が苦しげに眉を寄せた、その瞬間。
彼はようやく気づく。握っているのは、ちょうど火傷の箇所だった。
慌てて手を離す。
赤く腫れ、皮がめくれかけた肌が目に入った途端、守屋蒼河の顔色が変わる。
「……こんなにひどかったのか?」
声音に、思わず漏れた焦りが混じった。
「なんで言わなかった。俺は知らなかったんだ。これは俺のせいじゃ――」
「言ったところで、気にした?」
そのひと言は、鋭い刃のように守屋蒼河の胸を貫いた。
「俺は……」
実際、気にしなかっただろう。その後ろめたさが、言葉を空回りさせる。
守屋蒼河が何か言い繕おうとした、そのとき。
背後から、夏目茉莉の泣き声が届いた。
「蒼河兄さん……手が、痛い……」
その声を聞いた瞬間、守屋蒼河はためらいもなく相馬寧のことを忘れ、夏目茉莉のもとへ駆け戻っていった。
相馬寧は、その一部始終を静かに見つめる。
胸の中に、もう何の感情も湧かなかった。
守屋家を出て車に乗り込み、ドアを閉める。シートに深く身体を預けた。
腕の痛みが波のように押し寄せてくる。だが、その痛みですら、心に空いた穴の一万分の一にも及ばない。
――終わった。
相馬寧はエンジンをかけ、守屋本家を後にした。
それでも、心は落ち着かない。
脳裏には、守屋蒼河が夏目茉莉を庇って駆け寄った姿と、松本明霞の露骨な嫌悪の眼差しが、何度も何度も蘇る。
夏目茉莉のことは、もうさほど気にしていなかった。
自分が勝者だと思っているなら、守屋蒼河ごとくれてやればいい。
そんな男、もう惜しくもなんともない。
キィィッ――!
突然、耳障りなブレーキ音が響いた。
相馬寧ははっと我に返る。前方へ、黒いセダンがいきなり飛び出してきていた。
距離が近すぎる。
とっさにブレーキを踏み込むが、もう間に合わない。
ドンッ!
車の前部が黒いセダンへ激突する。
エアバッグが弾け、大きな衝撃で相馬寧の額は勢いよくハンドルへ打ちつけられた。手もどこかにぶつけたらしく、鋭い痛みが走る。
ほどなくして、腕にぬるりとした感触が広がる。
生暖かい液体が、つうっと流れ落ちていくのがわかった。
頭がくらくらする。
しばらくしてようやく意識が落ち着くと、相馬寧はドアを押し開けて車を降りた。
前の車からも運転手が下りてくる。黒いスーツを着た四十代くらいの男だった。
「お嬢さん、お怪我を……!」
近づいてきた男は、相馬寧の額から流れる血を見て息を呑む。
「すぐ救急車を呼びます」
「いえ、結構です」
相馬寧は首を振った。
「大した傷じゃありません。頭を強く打った感じもしませんし、内出血もないと思います。保険で処理しますか? それとも示談で?」
相馬寧は直進、相手は右折。
右折車が直進車を優先するのは常識だ。責任が相手側にあるのは明らかだった。
もっとも、自分が上の空で周囲の確認を怠ったせいでもある。事故になったのは不運だが、重傷で済まなかっただけまだましだ。
「少々お待ちください。ボスに確認します」
運転手は車の後部座席の窓へ歩み寄り、身を屈めて中の男へ何かを告げた。
相馬寧もつられてその方向を見る。
黒いセダンの後部座席には、ひとり。窓は半分ほど開いているが、光が弱くてよく見えない。
若い男だということだけはわかる。おそらく二十代だろう。
何を話したのか、しばらくして運転手が戻ってきた。手にはハンカチが一枚。
「お嬢さん、血が……ひとまずこちらで押さえてください。旦那様からです」
相馬寧は礼を言って受け取り、額の傷へそっと当てた。
驚くほど肌触りがよかった。やわらかく、きめ細かく、見るからに上質だ。
「旦那様は、示談でお願いしたいとのことです。金額をおっしゃってください」
相馬寧は回りくどいのが嫌いだった。
「100万で」
フロントは壊れ、額も怪我している。病院にも行かなければならない。100万なら高すぎる額ではない。
運転手はうなずき、現金を用意して差し出した。
「どうぞ、お受け取りください」
相馬寧はそれを受け取り、立ち去ろうとした。
そのとき、運転手が後ろから声をかけてくる。
「旦那様より。なるべく早く病院へ行って、傷の処置をなさってください。痕が残るといけませんので」
どこか申し訳なさそうに、彼は続けた。
「本来ならこちらで病院までお送りすべきなのですが、旦那様はお忙しく……おひとりで向かっていただくことになり、申し訳ありません」
「大丈夫です」
相馬寧は淡々と答え、車へ戻った。
走り出す前、彼女はもう一度だけ黒いセダンへ目を向ける。
後部座席の窓は閉まっていた。黒いスモークガラスに遮られ、車内の様子はまったく見えない。男の輪郭すらわからない。
なのに、はっきりと感じた。
鋭い視線が一筋、ガラス越しにまっすぐ自分へ注がれている、と。
車内では、古沢信弘が本革のシートにもたれ、長い指を膝の上に置いていた。
窓越しに、額から血を流しながらも平然と立っている女を見つめる。ハンカチを受け取ったときでさえ、その手は少しも震えなかった。
額には大きな裂傷があるのに、痛みを見せる気配すらない。まるで傷ついているのは自分ではない、とでも言いたげな無表情。
――面白い。
古沢信弘はこれまで、目の前で泣き喚く女ならいくらでも見てきた。だが、これほどの怪我を負ってなお眉ひとつ動かさない女は初めてだった。
さっき運転手が確認に来たとき、彼は彼女の腕にも火傷の跡があるのを見ている。
遠目でもわかるほど、小さな水ぶくれが密集して浮いていた。
それでも彼女は痛みを感じていないみたいに、異様なまでに冷静だった。
「行け」
古沢信弘は視線を引き戻し、淡々と命じる。
黒いセダンは再び走り出し、車の流れへと滑り込んでいった。
相馬寧はその車が去っていくのを見送り、手元のハンカチを見下ろす。
そこでようやく気づいた。
これ、上等な刺繍だ。
たかが一枚のハンカチでさえ、たぶん十万は下らない。
自分にぶつかったのは、いったい何者なのだろう。
エンジンをかけようとした、そのとき。
背後でクラクションが鳴った。
「相馬寧」
聞き慣れた、だが今はひどく不快な声。
振り向くと、後ろに停まったタクシーから守屋蒼河が飛び出してくる。
二、三歩で目の前まで来ると、額の傷を見て顔色を変えた。
「事故に遭ったのか? 大丈夫か、ひどくないか? すぐ病院へ行こう」
「来い。今すぐ連れていく」
