第7章 生々しい官能シーン
「相馬寧、おまえ、よくもそんな口を利けたな」
守屋蒼河が怒気をあらわにした。
「じゃあ、どう言えば満足なの?」
相馬寧の唇には、笑っているのかいないのか曖昧な弧が浮かぶ。けれど、その目は冷えきっていた。
守屋蒼河は、胸の奥に何かがつかえたような息苦しさを覚えた。
飾り気のない彼女の顔。その瞳の底にある静けさと決意を見た瞬間、彼は唐突に悟る。
相馬寧は本気だ。
本気で、自分のもとを去ろうとしている。
「寧々――」
守屋蒼河の声音は、たちまち弱々しくなった。手を伸ばし、彼女を引き寄せようとする。
だが相馬寧は一歩だけ身を引き、その手を寸分の狂いもなくかわした。
「疲れたの。休みたいわ」
そう言い残して扉を閉めると、ベッドへ戻り、布団を抱きしめるようにして横になる。
守屋蒼河は、閉ざされた扉の前にひとり立ち尽くした。胸の内は妙に空っぽなのに、その理由をうまく言葉にできない。
どれほどそうしていただろう。
やがて彼は目の前の扉を見上げ、低い声で告げた。
「明日、ウェディングフォトを焼き直して、使用人に飾らせる」
相馬寧に聞こえていることはわかっていた。だが、返事はない。
翌朝。
相馬寧が向かったのは守屋グループ本社だった。
守屋蒼河に会うためではない。辞表を出すためだ。
彼女はまっすぐ人事部へ向かい、あらかじめ用意しておいた退職願を差し出した。
人事部長は目を丸くする。
「相馬部長、ご退職なさるんですか? いったい何が――」
「ええ、辞めます」
相馬寧は静かにうなずいた。
部長の驚きはいっそう深まる。
「どこかご体調でも悪いのですか。それとも、何かご事情が……」
「いいえ。ただ少し疲れただけです。しばらく休みたくて」
そこまで言われてしまえば、人事部長もそれ以上は踏み込めない。
もともと守屋蒼河は以前から言っていた。相馬寧に関わる申請や人事案件は、内容を問わずそのまま通していい――と。
「承知しました、相馬部長。すぐに手続きを進めます」
必要書類が机に並べられ、手続きはほどなく終わった。
だが最後に、部長はひとつ付け加える。
「相馬部長は会社の古参でもありますので、正式な退職処理には少しお時間がかかります。最終的な確定までは数日ほど見ていただければ」
「わかっています」
相馬寧はかすかに笑った。
「必要なとおりに進めてください」
それだけ言って部屋を出る。
見慣れた社内。すれ違う同僚たち。
その中には、彼女が自ら育ててきた人材も少なくない。関係だって悪くはなかった。
けれど、それもここまでだ。
守屋グループを離れれば、彼らとの縁も少しずつ薄れていく。まるで最初から何もなかったみたいに。
いつか街で偶然すれ違っても、声をかけ合うことすらないのかもしれない。
「そうだ、相馬部長」
人事部長が慌てて追ってきた。
「ノートPCですが、守屋社長のところにあります。先日、社長が使うとおっしゃって持っていかせたんです。今日いらしたら伝えてくれと」
「わかりました。ありがとうございます」
相馬寧はうなずいたものの、胸の内ではひどくうんざりしていた。
本当は誰にも知られず辞職するつもりだった。もちろん、守屋蒼河にも。
だがノートPCの中には重要なものが多すぎる。取りに行かないわけにはいかなかった。
彼女はエレベーターで最上階へ向かう。
守屋蒼河のオフィスは、廊下のいちばん奥。
このフロア全体が彼専用の執務区画になっていて、やけに静まり返っていた。
秘書室にも人影はない。どこかへ外しているらしい。
オフィスの前まで来た相馬寧は、扉がわずかに開いていることに気づく。
そして、そこから漏れてくる音に、瞳がかすかに揺れた。
女の押し殺したような喘ぎ声。
それに絡む、男の抑えきれない息遣い。
ドアノブにかけた手が止まる。
中を見なくても、何が行われているかくらいわかる。
それでも、彼女はたった一秒だけ迷い――そのまま扉を押し開けた。
目に飛び込んできたのは、乱れきった室内だった。
床には守屋蒼河と女の衣服が散らばっている。
ソファにいた女は、夏目茉莉。
相馬寧の位置からは、彼女の上気した頬がはっきり見えた。恍惚とした表情で目を細め、いかにも酔いしれている顔。
数秒後、夏目茉莉の視線が焦点を結ぶ。
相馬寧の姿を認めた途端、その動きがぴたりと止まり、全身がこわばった。空気までも凍りついたようだった。
「きゃっ!」
真っ先に我に返ったのは夏目茉莉だった。
悲鳴を上げてソファから飛び降りると、散乱した服を慌ててかき集め、身につけていく。
「なんで入ってくるのよ?」
甲高い声には、怒りと苛立ちがむき出しになっていた。表向きの取り繕いなど、もうかなぐり捨てている。
「相馬寧、礼儀ってもの知らないの? オフィスに入るなら、まずノックくらいしなさいよ。もし私たちが何かしてたら、どうするつもりだったの?」
「もう見られてるでしょう」
相馬寧はドア枠にもたれたまま、無表情でその場を見返した。
本当に滑稽だ。
オフィスですら我慢できないのか。このふたりは。
「続けてちょうだい」
視線だけをデスクへ走らせる。守屋蒼河のほうは見もしない。
「私は自分のPCを取りに来ただけ。私のせいで、ふたりの気分を削いだなら悪かったわね」
「ひどすぎる!」
すでに服を着終えた夏目茉莉が、つかつかとこちらへ歩いてくる。相馬寧の視線を遮りつつ、守屋蒼河に身なりを整える時間を与えるつもりらしい。
「どうしてノックしないの? わざとでしょ?」
後ろめたさを打ち消したいのか、声だけがやけに大きい。
「絶対そうよ。私たちの恥を見て笑いたかったんでしょ?」
「ほんと最低。性格悪すぎるし、恥知らずにもほどがあるわ」
相馬寧は相手にせず、ノートPCを手に取った。中身に問題がないことを確かめてから、ようやく夏目茉莉へ目を向ける。
その頃には守屋蒼河も服を着終え、慌ててこちらへ歩み寄ってきていた。
何か言い訳をしようとしているのはわかる。
だが、もう遅い。
現場を押さえられておいて、何をどう取り繕うつもりなのか。仕事の話でもしていた、とでも言うつもりなのだろうか。裸で?
相馬寧はどうでもよさそうに笑った。
「夏目さん。あなた、いくつか根本的に勘違いしてるわ」
「第一に、ドアは閉まってなかった。つまり失敗したのは私じゃなくて、あなたたち」
「第二に、私がわざわざ見世物を見に来たって言うけど、そもそもオフィスでこんなことをしていなければ、見ようにも見られないでしょう?」
そこで彼女は、薄く口角を上げた。
「やることはやっておいて、見られるのは困るの?」
「あなた……!」
夏目茉莉は一瞬、もっときつい言葉を吐きかけそうになった。
だが、傍らに守屋蒼河がいることを思い出したのだろう。すぐに表情を切り替え、目に涙をにじませる。
「蒼河さん、見てぇ」
不満げに足を鳴らした。
「相馬お姉さんが、まさかこんな趣味だったなんて思わなかった。私たちのああいうところを見るのが好きだなんて、気持ち悪い」
「蒼河兄さん、ちゃんと言ってあげて。このままじゃ、ほんとどうしようもないよぉ」
「もし外で変なこと言いふらされたら、私たち、これからどうやって人前に出ればいいの?」
「私、こっちに来たばっかりで、まだ誰にも知られてないの。変な噂なんて立てられたくない」
――笑わせる。
相馬寧は胸の内で冷たく嗤った。
ドアは開いていたのだ。自分が来なくても、誰かに見られる可能性は十分あった。
仮に誰かが見たとしても、普通は中のふたりに気づかれないよう、そのまま黙って立ち去るだけだろう。
