第1章
相沢千尋は夫の一ノ瀬律に二十通ものメッセージを送った。
けれど、最後に返ってきたのは、たった短い無情な返信だけだった。
【用事がある。邪魔するな】
彼という人間そのものみたいに、冷え切った文面だった。
テーブルいっぱいに並べた手料理は、とっくに冷めきっている。相沢千尋の心もまた、ずるずると沈んでいった。
今日は、彼が感覚を取り戻してから、初めて一緒に迎える誕生日だった。彼女なりに、たくさん心を砕いたのに。
全部、無駄だった。
またスマホが光る。親友から送られてきたツイッターのリンクだ。
何気なく開いた、その瞬間。
千尋の呼吸が止まった。
写真の中では、一ノ瀬律がやわらかく微笑み、若い女の子と指を絡め合ったまま、三段の大きなバースデーケーキにナイフを入れていた。
添えられていた言葉は、たった一言。
――久しぶり。誕生日おめでとう。
それだけなのに、相沢千尋の全身から血の気が引いた。
そのアカウントを、彼女は知っている。相沢エリカ。腹違いの妹であり、そして一ノ瀬律の心に長年住み続ける高嶺の花。
さらに胸を凍らせたのは、写真の中に父親までいたことだった。
位置情報は、リッツホテル。
相沢千尋はバッグをつかむと、そのまま家を飛び出した。
……
宴会場の入り口に着いた相沢千尋は、息をのんだ。
中は夢のように華やかに飾りつけられ、床一面には薔薇の花びらが散っている。見るだけで胸の奥がずきりと痛んだ。
その先――一ノ瀬律は身体を少し傾け、相沢エリカの唇の端についたクリームを、指先でそっとぬぐっていた。
彼の目に宿る甘やかさは、溢れんばかりだった。
五年前、一ノ瀬律は相沢エリカのために無茶な運転をして事故を起こし、目も耳も失った廃人同然になった。そんな彼を、丸五年付き添ってきたのは相沢千尋だ。彼が回復できたのも、彼女が心血を注ぎ続けたからにほかならない。
なのに、彼がこんなふうに誰かを慈しむ顔を、彼女は一度だって向けられたことがない。
胸の痛みを押し殺し、相沢千尋は中へ足を踏み入れた。
さっきまで賑やかだった会場が、すっと静まり返る。
真っ先に駆け寄ってきたのは継母の相沢慧子だった。彼女は千尋を脇へ引っ張り、声をひそめながらも鋭くまくしたてる。
「誰が来ていいって言ったの? ほんとに礼儀がないわね! 今夜はエリカの歓迎会なのよ。ここで恥をさらさないでちょうだい」
続いて父親も慌ててやって来た。
「何を騒いでるんだ! お前は五年間も律を独占してきただろう。今さらエリカが誕生日を一緒に過ごすくらい、何をそんなに目くじら立てる必要がある? さっさと帰れ」
相沢千尋は拳をぎゅっと握りしめた。
十歳のとき母が亡くなってから、彼女は相沢家を追い出されている。とっくに家族などいない。それでも、父の口からそんな言葉を聞かされると、胸の奥が重く詰まって苦しかった。
視線を上げると、ちょうど一ノ瀬律が冷ややかに目を逸らすところだった。
彼女が責め立てられているのを、分かっているくせに。
何ひとつ、動こうとしない。
心臓がまたひどく痛んだ。
「お父さん」
相沢千尋は父の相沢栄介を見て、皮肉げに口を開く。
「忘れたの? 最初に彼の世話をしてほしいって、私に頼み込んできたのはそっちでしょう。相沢エリカが戻ってきた途端、今度は私だけ蚊帳の外ってわけね」
「お姉ちゃん、お父さんたちを責めないで。私があなたに伝えるのを忘れてただけなの」
相沢エリカが歩み寄ってきた。
白いドレスに身を包んだ姿は百合の花みたいで、清楚で、いかにも無垢そうに見える。
「でも、来てくれて嬉しいわ。この五年、律のことを見ていてくれてありがとう。おかげでこんなに早く良くなったんだもの」
相沢千尋は怒りを通り越して、笑ってしまった。
「律は私の夫よ。あなた、どんな立場で私にお礼を言ってるの? それとも今は、すすんで浮気相手になりにいくのが誇らしいことにでもなったの?」
「相沢千尋!」
低く怒気を含んだ声とともに、一ノ瀬律が歩み寄ってきた。
彼は相沢エリカを背後にかばい、冷え切った目で千尋を見下ろす。
「俺を尾行してまで、ここでエリカを侮辱しに来たのか? 自分の姿を見てみろ。少しは品位というものがないのか」
その警戒と拒絶に満ちた態度に、相沢千尋の胸は引き裂かれるように痛んだ。
「ここにお前の居場所はない。送らせる」
一ノ瀬律はそのまま、助手に命じた。
相沢千尋の目の縁が赤く染まる。
彼女は何も言わず、くるりと背を向けて立ち去った。
別荘に戻ると、執事が迎えに出た。
「奥様、お坊ちゃまはまだお戻りではありません。お料理、温め直しましょうか」
「捨ててください」
食卓を見ることすらせず、相沢千尋はまっすぐ寝室へ向かった。
灯りもつけず、そのままベッドに倒れ込む。
耳の奥では、まだ一ノ瀬律の言葉が響いていた。
誰もが思っている。彼女は一ノ瀬家の権勢が欲しくて、壊れた一ノ瀬律に嫁いだのだと。
違う。
ただ、好きだったからだ。
彼が奈落へ落ちていくのを、見ていられなかっただけ。
十歳のとき、母が亡くなって半年もしないうちに、父は相沢慧子と再婚した。しかも連れてきたのは、彼女と同い年で、同じ誕生日の相沢エリカ。ほどなくして、千尋自身も家から追い出された。
行き場を失ったあのとき。
温かいミルクを差し出し、彼女を受け入れてくれたのが一ノ瀬律だった。あの二年間、彼は大きな木のように彼女を守ってくれた。
けれどその後、相沢栄介と相沢慧子は彼女を田舎へ送った。
そして五年前、一ノ瀬律が事故に遭い、相沢エリカが海外へ逃げると、一ノ瀬家の怒りを鎮めるために父は千尋を呼び戻し、一ノ瀬律と結婚させ、一生彼の世話をするよう強いた。
彼が可哀想で、相沢千尋は来た。
視力も聴力も失った一ノ瀬律は、ひどく気難しかった。
それでも彼女は怖がらなかった。手のひらに文字を書き、辛抱強く寄り添い続けた。やがて彼は少しずつ彼女を受け入れ、ついには回復した。
でも、相沢千尋は思ってもみなかった。
見えない人が目を取り戻したら、本当に手にしていた杖を捨てるのだと。
この五年は、ただ彼女ひとりの思い込みだったのだ。
相沢千尋は目尻をぬぐい、起き上がって明かりをつけようとした。
ドアのそばまで来たところで、下から執事の声が聞こえてくる。
「お坊ちゃま、お帰りなさいませ。奥様はずっとお待ちでした。今日は……実は奥様のお誕生日でもあるんです。お顔を見に行かれますか?」
一ノ瀬律の返事は、驚くほど淡々としていた。
「助手に贈り物は届けさせただろう。そんな小さなことで、いちいち俺に言う必要はない」
相沢千尋は自嘲気味に笑った。
彼にとって、自分のことはその程度なのだ。
誕生日を思い出してもらうことすら、わざわざ言及する価値もない。
ドアノブから手を離し、彼女は外へ出た。
少し離れたところから、彼を見つめる。
「私のことが、あなたにとってそんなに取るに足らないことなら……もう続ける意味なんてないわ」
そして、はっきりと告げた。
「一ノ瀬律。離婚しましょう」
一ノ瀬律は振り返った。
その目には他の感情はない。ただ、冷たい査定と、隠しもしない怒りだけ。
「今夜のことで不満なのか?」
