お払い箱の杖は、夜に咲く

お払い箱の杖は、夜に咲く

森川澪 · 連載中 · 437.2k 文字

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紹介

「目が見えるようになった途端、手すりの杖を捨てるのね」

事故で盲目かつ失聴した夫を5年間、溢れる愛で献身的に支え続けた主人公。しかし、五感が戻った夫が最初に抱きしめたのは、かつて彼が愛した初恋の女だった。

家族からも夫からも裏切られた彼女は、未练を一切捨てて離婚を決意。

離婚の理由に「夫の夜の体力不足」という最大の屈辱を書き残し、結婚指輪を捨ててあっさりと家を出る。

夫の好みに合わせてこれまで隠していた「息をのむほど明艶な美貌」を解放し、夜の街へと繰り出した彼女は、一瞬で全場の視線を独占する。

バーのVIP席からその圧倒的な美女を凝視し、なぜか目が離せなくなっている元夫は、まだ気づいていない。それが、自分が「地味で退屈な女」だと見下していた元妻の真の姿だということに……

チャプター 1

相沢千尋は夫の一ノ瀬律に二十通ものメッセージを送った。

けれど、最後に返ってきたのは、たった短い無情な返信だけだった。

【用事がある。邪魔するな】

彼という人間そのものみたいに、冷え切った文面だった。

テーブルいっぱいに並べた手料理は、とっくに冷めきっている。相沢千尋の心もまた、ずるずると沈んでいった。

今日は、彼が感覚を取り戻してから、初めて一緒に迎える誕生日だった。彼女なりに、たくさん心を砕いたのに。

全部、無駄だった。

またスマホが光る。親友から送られてきたツイッターのリンクだ。

何気なく開いた、その瞬間。

千尋の呼吸が止まった。

写真の中では、一ノ瀬律がやわらかく微笑み、若い女の子と指を絡め合ったまま、三段の大きなバースデーケーキにナイフを入れていた。

添えられていた言葉は、たった一言。

――久しぶり。誕生日おめでとう。

それだけなのに、相沢千尋の全身から血の気が引いた。

そのアカウントを、彼女は知っている。相沢エリカ。腹違いの妹であり、そして一ノ瀬律の心に長年住み続ける高嶺の花。

さらに胸を凍らせたのは、写真の中に父親までいたことだった。

位置情報は、リッツホテル。

相沢千尋はバッグをつかむと、そのまま家を飛び出した。

……

宴会場の入り口に着いた相沢千尋は、息をのんだ。

中は夢のように華やかに飾りつけられ、床一面には薔薇の花びらが散っている。見るだけで胸の奥がずきりと痛んだ。

その先――一ノ瀬律は身体を少し傾け、相沢エリカの唇の端についたクリームを、指先でそっとぬぐっていた。

彼の目に宿る甘やかさは、溢れんばかりだった。

五年前、一ノ瀬律は相沢エリカのために無茶な運転をして事故を起こし、目も耳も失った廃人同然になった。そんな彼を、丸五年付き添ってきたのは相沢千尋だ。彼が回復できたのも、彼女が心血を注ぎ続けたからにほかならない。

なのに、彼がこんなふうに誰かを慈しむ顔を、彼女は一度だって向けられたことがない。

胸の痛みを押し殺し、相沢千尋は中へ足を踏み入れた。

さっきまで賑やかだった会場が、すっと静まり返る。

真っ先に駆け寄ってきたのは継母の相沢慧子だった。彼女は千尋を脇へ引っ張り、声をひそめながらも鋭くまくしたてる。

「誰が来ていいって言ったの? ほんとに礼儀がないわね! 今夜はエリカの歓迎会なのよ。ここで恥をさらさないでちょうだい」

続いて父親も慌ててやって来た。

「何を騒いでるんだ! お前は五年間も律を独占してきただろう。今さらエリカが誕生日を一緒に過ごすくらい、何をそんなに目くじら立てる必要がある? さっさと帰れ」

相沢千尋は拳をぎゅっと握りしめた。

十歳のとき母が亡くなってから、彼女は相沢家を追い出されている。とっくに家族などいない。それでも、父の口からそんな言葉を聞かされると、胸の奥が重く詰まって苦しかった。

視線を上げると、ちょうど一ノ瀬律が冷ややかに目を逸らすところだった。

彼女が責め立てられているのを、分かっているくせに。

何ひとつ、動こうとしない。

心臓がまたひどく痛んだ。

「お父さん」

相沢千尋は父の相沢栄介を見て、皮肉げに口を開く。

「忘れたの? 最初に彼の世話をしてほしいって、私に頼み込んできたのはそっちでしょう。相沢エリカが戻ってきた途端、今度は私だけ蚊帳の外ってわけね」

「お姉ちゃん、お父さんたちを責めないで。私があなたに伝えるのを忘れてただけなの」

相沢エリカが歩み寄ってきた。

白いドレスに身を包んだ姿は百合の花みたいで、清楚で、いかにも無垢そうに見える。

「でも、来てくれて嬉しいわ。この五年、律のことを見ていてくれてありがとう。おかげでこんなに早く良くなったんだもの」

相沢千尋は怒りを通り越して、笑ってしまった。

「律は私の夫よ。あなた、どんな立場で私にお礼を言ってるの? それとも今は、すすんで浮気相手になりにいくのが誇らしいことにでもなったの?」

「相沢千尋!」

低く怒気を含んだ声とともに、一ノ瀬律が歩み寄ってきた。

彼は相沢エリカを背後にかばい、冷え切った目で千尋を見下ろす。

「俺を尾行してまで、ここでエリカを侮辱しに来たのか? 自分の姿を見てみろ。少しは品位というものがないのか」

その警戒と拒絶に満ちた態度に、相沢千尋の胸は引き裂かれるように痛んだ。

「ここにお前の居場所はない。送らせる」

一ノ瀬律はそのまま、助手に命じた。

相沢千尋の目の縁が赤く染まる。

彼女は何も言わず、くるりと背を向けて立ち去った。

別荘に戻ると、執事が迎えに出た。

「奥様、お坊ちゃまはまだお戻りではありません。お料理、温め直しましょうか」

「捨ててください」

食卓を見ることすらせず、相沢千尋はまっすぐ寝室へ向かった。

灯りもつけず、そのままベッドに倒れ込む。

耳の奥では、まだ一ノ瀬律の言葉が響いていた。

誰もが思っている。彼女は一ノ瀬家の権勢が欲しくて、壊れた一ノ瀬律に嫁いだのだと。

違う。

ただ、好きだったからだ。

彼が奈落へ落ちていくのを、見ていられなかっただけ。

十歳のとき、母が亡くなって半年もしないうちに、父は相沢慧子と再婚した。しかも連れてきたのは、彼女と同い年で、同じ誕生日の相沢エリカ。ほどなくして、千尋自身も家から追い出された。

行き場を失ったあのとき。

温かいミルクを差し出し、彼女を受け入れてくれたのが一ノ瀬律だった。あの二年間、彼は大きな木のように彼女を守ってくれた。

けれどその後、相沢栄介と相沢慧子は彼女を田舎へ送った。

そして五年前、一ノ瀬律が事故に遭い、相沢エリカが海外へ逃げると、一ノ瀬家の怒りを鎮めるために父は千尋を呼び戻し、一ノ瀬律と結婚させ、一生彼の世話をするよう強いた。

彼が可哀想で、相沢千尋は来た。

視力も聴力も失った一ノ瀬律は、ひどく気難しかった。

それでも彼女は怖がらなかった。手のひらに文字を書き、辛抱強く寄り添い続けた。やがて彼は少しずつ彼女を受け入れ、ついには回復した。

でも、相沢千尋は思ってもみなかった。

見えない人が目を取り戻したら、本当に手にしていた杖を捨てるのだと。

この五年は、ただ彼女ひとりの思い込みだったのだ。

相沢千尋は目尻をぬぐい、起き上がって明かりをつけようとした。

ドアのそばまで来たところで、下から執事の声が聞こえてくる。

「お坊ちゃま、お帰りなさいませ。奥様はずっとお待ちでした。今日は……実は奥様のお誕生日でもあるんです。お顔を見に行かれますか?」

一ノ瀬律の返事は、驚くほど淡々としていた。

「助手に贈り物は届けさせただろう。そんな小さなことで、いちいち俺に言う必要はない」

相沢千尋は自嘲気味に笑った。

彼にとって、自分のことはその程度なのだ。

誕生日を思い出してもらうことすら、わざわざ言及する価値もない。

ドアノブから手を離し、彼女は外へ出た。

少し離れたところから、彼を見つめる。

「私のことが、あなたにとってそんなに取るに足らないことなら……もう続ける意味なんてないわ」

そして、はっきりと告げた。

「一ノ瀬律。離婚しましょう」

一ノ瀬律は振り返った。

その目には他の感情はない。ただ、冷たい査定と、隠しもしない怒りだけ。

「今夜のことで不満なのか?」

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