第4章

秋の夕陽が銀杏の葉を透かし、公園の石畳に降り注ぐ。金色の蝶のように、ひらひらと舞い落ちていく。

私は小百合を抱いてブランコのそばに座り、彼女がぷくぷくとした小さな手で舞い散る葉っぱを掴むのを見ていた。

「ママ、葉っぱきれい!」

小百合がきゃっきゃっと笑う。

「ええ、きれいね」

私は彼女の髪をそっと撫でながら、心の中では時間を計算していた。

いつもなら五時半には家に帰るけれど、今日はわざと六時半まで引き延ばしたのだ。

スマホの画面が示す時刻は、18:32。

そろそろ時間だ。

「小百合、おうちに帰りましょう」

私は娘を抱き上げ、ゆっくりと家の方角へ歩き出した。

夜の帳が下り、街灯が一つ、また一つと灯っていく。私はわざと歩みを緩め、心の中でこれから起こるすべてを予行演習していた。

玄関のドアを開けた瞬間、冷たい空気が肌を撫でた。

やはり、橘夫人が玄関脇の畳に正座していた。その顔色は、嵐の前の空のようにどんよりと曇っている。

彼女の後ろにある格子戸は固く閉ざされ、薄暗い照明がその顔に影を落とし、全身から威厳と怒りのオーラを放っていた。

「ただいま戻りました」

私は彼女の怒りに気づかないふりをして、そっと言った。

「苗美」

彼女の声は、真冬の北風のように低く響く。

「あなた、これはどういうつもり?」

私は戸惑ったふりをした。

「どういう、とは?」

「子供をこんな時間まで外に!?」

彼女は勢いよく立ち上がり、震える指で私を指さした。

「今、何時だと思っているの? 小百合の夕食の時間も、お風呂の時間も、全部あなたに台無しにされたのよ!」

「私はただ、小百合にもっと自然に触れさせてあげたいと……」

私は少し、しょげたように言った。

「自然に触れる?」

橘夫人の声が甲高くなる。

「あなたという無責任な母親! 子供の健康と規則正しい生活が何より大事なのよ! それを自分のわがままのために……」

「わがままではありません」

私は彼女の言葉を遮った。その声には、今までにない確固たる響きが宿っていた。

「私にも考えがあります。小百合に必要なのは、規則正しい生活だけではありません。楽しさや自由も必要なのです」

橘夫人は呆然としていた。まさか私が口答えするとは信じられない、といった様子だ。

空気中の火薬の匂いが、ますます濃くなっていく。

「和室に来なさい」

橘夫人は冷たく命令を下した。

和室には、茶器が整然と並べられ、空気中には淡い白檀の香りが漂っている。橘夫人が上座に正座し、私はその前に跪いた。

この主従関係に、私はもう三年も耐えてきた。

「苗美」

彼女が口を開く。その声は骨身に染みるほど冷たい。

「先ほどの言葉はどういう意味かしら? 私に口答えする気?」

「口答えなどしておりません」

私は表面上の恭順を保ちつつも、声は以前のようにおどおどしてはいなかった。

「ただ、自分の考えを述べたまでです。母親として、私にも自分の育児理念があります」

橘夫人の顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。

「あなたの考え? あなたの理念ですって?」

彼女は震えながら立ち上がった。

「自分の立場をわきまえなさい! この家では、私の言うことがルールなのよ! よそから来た女が、私に指図する資格があるとでも?」

「私は何か間違ったことを申しましたか?」

私は顔を上げ、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。

「自分の娘を愛し、最高の環境で育てたい。それが何か間違っていますか?」

私がこれほど直接的に彼女に反論したのは、初めてのことだった。

橘夫人は完全に激昂し、右手を振り上げた。平手が私の頬めがけて飛んでくる。

「この、身の程知らずが……!」

準備はできていた。

彼女の手が私の頬に触れる寸前、私は不意に体を後ろに反らし、わざとバランスを崩した。

「あっ!」

私は派手な音を立てて転倒し、後頭部を背後の茶箪笥の角に的確にぶつけた。

激しい痛みが瞬時に走り、視界がぼやけ始める。

「頭が……痛い……」

私は後頭部を押さえた。指の隙間から、生温かい液体が滲み出てくる。

本当に、血が出ていた。

橘夫人の顔色が、さっと真っ白になる。

「苗美? 苗美! 大丈夫!?」

私は畳の上に倒れ込み、彼女の慌てふためく様子を見ながら、心の中は異常なほど冷静だった。

すべては計画通りに進んでいる。

お手伝いさんが物音を聞きつけて慌てて駆け込んできて、血痕を見ると甲高い悲鳴を上げた。

「は、早く救急車を!」

橘夫人の声が震えている。

私はか細い声で、お手伝いさんの手を掴んだ。

「大丈夫……ちょっとぶつけただけだから……平気……」

「奥様、血が! 血が出ています!」

お手伝いさんはすっかり狼狽えている。

「本当に大丈夫……」

私は健気に振る舞い、身を起こそうともがいてみせる。

「少し休めば……」

実際には傷はそれほど深くないが、薄暗い照明の下ではことさらに痛々しく見えた。

寝室には淡い香が焚かれ、私は頭に包帯を巻いてベッドに横たわっている。弱々しく、罪のない被害者のように。

小百合がベッドのそばに寄り添い、小さな手で私の頬を撫でる。

「ママ、痛いの?」

「痛くないわ」

私は優しく微笑んだ。

「ママ、すぐに良くなるからね」

玄関でドアの開く音がして、淳一郎が帰ってきた。

すぐに、リビングから激しい口論が聞こえてくる。

「一体どういうことだ? どうして苗美が怪我なんかしてるんだ!」

淳一郎の声は怒りに満ちている。

「わ、私は……彼女が転ぶなんて思わなくて……」

橘夫人の声には、泣き声が混じっている。

「ですが奥様は、確かに手を振り上げていらっしゃいました……」

お手伝いさんがおずおずと証言する。

「奥様は、きっと驚かれてそれで……」

「母さん、あんまりだ!」

淳一郎の怒号が、家全体を震わせる。

「苗美はもう十分苦労してるんだぞ、どうしてこれ以上……」

「私だって、こんなこと望んでなかったわ!」

橘夫人はついに泣き出した。

「あの子が急に口答えなんかするから、私もついカッとなって……」

口論は三十分も続いた。

やがて、寝室のドアが静かに開けられた。

淳一郎が憔悴しきった表情で入ってきて、その瞳には申し訳なさが満ちていた。

「苗美、すまない……全部俺が悪い。家のことをちゃんとできてなくて……」

「あなたのせいじゃないわ」

私は弱々しく彼の手を握った。

「たぶん……私がわがままだったのね」

「違う、母さんがひどすぎるんだ」

彼は私の頬を撫で、その目に苦痛の色がよぎる。

「医者は安静が必要だって言っていた。これ以上、刺激を与えちゃいけないって……」

「淳一郎さん」

私は苦痛と諦めが入り混じった表情を作った。

「私……しばらく家を出て暮らしたいの」

彼は呆然とした。

「家を出る?」

「あなたを板挟みにして、つらい思いをさせたくないの」

私の声は嗚咽に震える。

「小百合に、大人が喧嘩しているところばかり見せたくもない……。まずは家を出て、私が怪我を治して、みんなの気持ちが落ち着いてから、また考えましょう」

淳一郎は長い間黙っていたが、やがて重々しく頷いた。

「わかった。すぐに部屋を探す」

「ありがとう」

私は彼の手を強く握りしめながら、心の中では冷ややかに笑っていた。

すべては計画通り。

この入念に設計された「事故」が、ついに私に独立の機会をもたらしたのだ。

三日後、渋谷区の家具付き2LDKのマンション。

モダンでシンプルな内装で、掃き出し窓からは東京タワーの姿が見える。

陽光が白いレースのカーテン越しにリビングに差し込み、すべてが清々しく、希望に満ちているように感じられた。

淳一郎が私の荷解きを手伝ってくれていて、小百合は広々としたリビングを嬉しそうに走り回っている。

「ここの環境はいいね、療養にはぴったりだ」

彼は最後の段ボールを置きながら言った。

「病院にも近いし、何かあればすぐに診てもらえる」

「いろいろ考えてくれてありがとう」

私はソファに座り、わざと弱々しくクッションに寄りかかった。

「確かに、家よりずっと静かね」

「苗美」

彼は私の隣に座り、複雑な表情を浮かべる。

「この間は、つらい思いをさせたな。君の体が良くなったら、家の問題も少しずつ解決していこう」

「すぐに良くなるわ」

私は彼の手を握り、真摯な眼差しを向けた。

「私たちのことは心配しないで、仕事に集中して」

淳一郎が帰った後、私はすぐに立ち上がって窓辺へ行き、周囲の環境を観察した。

左手には24時間営業のジム、右手には渋谷区立図書館、向かいには評判の良い英会話スクールもある。

私はスマホを取り出し、公務員試験に関する情報を検索し始めた。

翌日の午後、小百合の私物を取りに元の家に戻った。

ちょうど、橘の妹が外出しようとしているところに鉢合わせた。彼女はシャネルのスーツに身を包み、限定品のバッグを提げ、いかにもマダムといった出で立ちだ。

「お義姉さん、お帰りなさい」

彼女は私を上から下まで値踏みするように見つめ、その口元には嘲りの笑みが浮かんでいる。

「外での暮らしは快適なんですって?」

私は仕方がないというように溜め息をついた。

「私も望んでこうなったわけじゃないの。ただ、これ以上家で揉め事を起こしたくなくて……」

「揉め事?」

橘の妹はふっと笑う。

「お義姉さんはお口が達者ね。でも、まあいいわ。家で可哀想ぶられるよりはマシよ」

私は彼女の言葉に傷ついたふりをして、俯いて言った。

「実は……、あなたも知っておくべきことがあるかもしれないわ」

「何のこと?」

私は周りを見回し、誰もいないことを確認してから、声を潜めた。

「実は、あの三つの不動産のことなんだけど……」

「どういうこと?」

橘の妹の表情が、瞬時に険しくなる。

「お兄様から聞いてないの?」

私は驚いたふりをした。

「銀座の物件と、渋谷の投資用不動産、全部お兄様の名義になってるのよ」

橘の妹の顔色がさっと変わった。

「ありえない! あれは元々、父が遺した家の財産よ!」

「私も最近、書類を整理していて気づいたの」

私はさらに油を注ぐ。

「確か三年前にはもう名義変更されてたみたい。たぶん……結婚する前後のことだと思うわ」

「確かなの?」

橘の妹の声が震え始める。

「書類なら、お兄様の書斎にあるはずよ」

私は耐えられないといった様子で言った。

「きっと……何か考えがあってのことでしょうけど」

橘の妹の顔は土気色になり、向きを変えると書斎へ突進していった。

私は玄関で靴を履き替えながら、書斎から戸棚をひっくり返す音が聞こえてくるのを聞いていた。

すぐに、橘の妹が血相を変えて飛び出してきた。その手には書類の束が握られている。

「あのクソ野郎!」

彼女は歯ぎしりした。

「私たちに隠れてこんなことを!」

「橘さん、落ち着いて……」

私はなだめるふりをした。

「あいつに文句を言ってやる!」

彼女はバッグをひっつかむと、外へ飛び出していった。

怒りに燃えて去っていく彼女の後ろ姿を見送りながら、私の口元には気づかれぬほどの笑みが浮かんだ。

橘家の内紛に、正式に火がついた。

夜、淳一郎が私のアパートにやってきた。ひどく疲れた様子だ。

「今日、どうしたの? すごく疲れて見えるけど」

私は心配そうに尋ねた。

「妹が突然美術館に怒鳴り込んできて、俺が家の財産を横領したって騒ぐんだ」

彼はこめかみを揉みながら言った。

「まったく、わけがわからない」

私は心の中でほくそ笑みながら、表面上は心配そうな顔を作った。

「どこかで何か誤解があったのかしら?」

「母さんが焚きつけたんだろう」

彼は疲れたようにソファに腰を下ろした。

「家のことが、どんどんややこしくなっていく」

その時、彼のスマホが鳴った。

着信表示を見て、彼の表情が瞬時に緊張する。

「雪奈?」

彼は電話に出た。

「どうした?」

「淳一郎君、本当にごめんなさい、こんな夜遅くに」

電話の向こうから、雪奈の少し泣きじゃくったような声が聞こえる。

「すごく困ったことになっちゃって……」

「どうしたんだ?」

淳一郎はすぐに立ち上がり、その声には気遣いが満ちている。

「明日、すごく大事なパーティーがあるんだけど、あの真珠のイヤリングが見つからないの……。おばあ様の形見で、私にとってすごく大切なものなのに……」

「とにかく落ち着いて、俺がすぐ行って探すの手伝うから」

彼は慌てて電話を切り、私の方へ向き直った。

「雪奈が急用で困ってるんだ。ちょっと行かないと」

「行ってあげて、わかるわ」

私は優しく微笑んだ。

「友達が困っている時は、助けてあげるべきよ」

「苗美、君は本当に……」

彼の目に、複雑な感情がよぎる。

「私と小百合のことは大丈夫」

私は彼のそばへ行き、襟を直してあげた。

「私たちのことは心配しないで」

彼が慌ただしく去っていく背中を見送り、ドアを閉めた。その瞬間、私の顔から優しい微笑みは消え去った。

私は書斎机に向かい、一枚の白い紙を広げ、詳細な自己改造計画を立て始めた。

減量目標:60kg → 45kg(3ヶ月)

トレーニング計画:毎日2時間、有酸素+無酸素運動

学習計画:公務員試験、TOEIC、美術史

スキルアップ:茶道、華道の再開

私はペンを握りしめる。その眼差しは、鋼のように固かった。

この戦い、絶対に勝ってみせる。

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