第2章
香椎柚葉視点
十月のB市の空気は、秋の冷気を運んでいた。星乃カフェの外に立つ私の胸を、引き裂かれるような痛みが貫く。
三ヶ月前、医者からあの言葉を告げられた瞬間、私の世界は崩壊した。
「日向さん、落ち着いて聞いてください。検査の結果ですが、あまり良くないお知らせになります。残念ながら、がんが肺と肝臓に転移していることが分かりました。今後のことについて、厳しいお話になりますが、何もしなければ、残された時間は半年というのが一つの目安になります。」
あの頃、日向和彦はオフィスでIPOロードショーの準備に追われ、十年間の集大成を投資家たちに情熱的にプレゼンしていた。彼が送ってくれた写真――ステージに立ち、成功の輝きで瞳をきらめかせている彼の姿を、私は見つめた。今まで見たどんな光景よりも、それは美しかった。
どうして彼に告げられるだろう? 彼のキャリアで最も重要なこの瞬間に、すべてを壊すなんてことができるだろうか。
投資家たちは明言していた。CEOにはいかなるマイナスの影響もあってはならない、と。癌を患う妻は日向和彦の足枷となり、投資家たちに彼の集中力を疑わせ、IPOそのものを頓挫させてしまうだろう。
それに何より、彼に同情でそばにいてほしくはなかった。健康的で美しかった香椎柚葉を覚えていてほしかった。死にゆく、醜い女ではなく。
だから私は、去ることを選んだ。考えうる限り、最も残酷な方法で。
「二人が出会った場所って、ここなの?」
隣で汐見海璃がカメラの角度を調整しながら尋ねた。
「うん」
乾いた声が出た。
「八年前の、同じ秋の日だった」
言い終えた途端、携帯がけたたましく鳴り響いた。画面に表示された「朝鳴里奈」の名前に、心臓が跳ねる。
私の親友。そして、結婚式の付添人でもあった彼女。
「柚葉!」
里奈の怒声がスピーカーからほとばしった。
「あんたがそんな人間だったなんて、思ってもみなかった!」
「里奈、私は――」
「説明なんていらない! ネットの写真、見たから!」
彼女の声は金切り声に近い。
「あんたと、あの医者がキスしてる写真! ネット中があんたを叩いてるんだよ!」
血の気がさっと引いた。写真?
「日向和彦が今どんな状態か分かってるの?」
里奈は吠えるように言った。
「昨日、会社にも行かなかったんだよ! 沙織が言ってたけど、ただずっと、あんたたちの結婚式の写真を眺めてたって!」
心臓を金槌で殴り砕かれたようだった。
日向和彦が苦しんでいる。オフィスで一人、私たちの結婚式の写真を見つめ、その瞳からゆっくりと光が消えていく姿を想像してしまう。
「私には……理由があるの」
「愛する人を裏切っておいて、どんな理由があるって言うのよ!」
里奈は絶叫した。
「私たち、十年も友達だったのよ、柚葉! 十年も! あんたのこと、分かってるつもりだった!」
「里奈、私は――」
「本当にがっかりした!」
彼女はそう言って電話を切り、耳元には無慈悲な通話終了音が鳴り響いた。
携帯を握る手が震える。海璃が心配そうに私を見ていた。
「どうしたの?」
「なんでもない」
私は無理に笑ってみせた。
「友達との、ちょっとした誤解よ」
携帯が狂ったように震え始めた。
「柚葉、正気? ――成原杏子」
「いい男の人生を台無しにしたね。 ――三上弥子」
一つ一つのメッセージがナイフとなり、すでにずたずたの心に新たな傷を刻んでいく。
私は、皆の標的になっていた。
「中に入って座ろう」
そんな私の苦しげな様子に気づいたのか、海璃が声をかけてくれた。
頷いてカフェのドアを押す。懐かしいコーヒーの香り――シナモンと焙煎された豆の匂いが鼻をついた。かつては温もりをくれたその香りが、今は私を逃げ出したい気持ちにさせる。
席に着いた途端、若い女の子が突然近づいてきて、私の顔にスマートフォンを突きつけた。
「あなたが日向柚葉? あの浮気女?」
顔が瞬時に赤く染まり、周りの客が一斉にこちらを振り向く。その視線は無数のナイフだった――好奇心、軽蔑、非難。
「やめてください」
海璃が立ち上がり、私とその子の間に割って入った。
「プライバシーにご配慮いただけますでしょうか」
「プライバシー?」
少女は鼻で笑った。
「浮気してるときにプライバシーなんてあったわけ? 可哀想な日向和彦さん。こんな女に何年も騙されて!」
もう耐えられなかった。私は立ち上がると、カフェから駆け出した。
B市の冷たい風が、刃物のように顔を切りつける。涙が頬を伝った。それが寒さのせいなのか、それとも心の痛みのせいなのか、分からなかった。
その日の午後、私たちは名高い観光路をそぞろ歩いた。日向和彦と、数えきれないほど手をつないで歩いた道だ。
だが、わずか三十分ほど歩いたところで、慣れ親しんだ吐き気が津波のように押し寄せてきた。化学療法の副作用は、いつも最悪のタイミングで現れる。
「少し休ませて」
私は樫の木に寄りかかり、込み上げる吐き気を必死にこらえた。
「顔色がすごく悪いわよ」
海璃が心配そうに私を見つめる。
突然、もう抑えきれなくなった。私はゴミ箱に向き直ると、激しく嘔吐した。
胃液とコーヒーが混じり合って流れ出し、苦い味が口いっぱいに広がる。胃がけいれんし、その収縮の一つ一つが、誰かに拳で握りつぶされているかのようだ。
「なんてこと、柚葉! 病院を探さないと!」
海璃が駆け寄ってくる。
「ダメ!」
私は慌てて彼女を制止した。
「離婚のストレスよ。薬は持ってるから」
震える手で吐き気止めの薬を取り出す。そこにあった「化学療法用制吐剤」というラベルを、私は素早く隠した。
「精神安定剤よ」
私は嘘をついた。
「お医者さんが処方してくれたの」
海璃は疑わしげな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
この体さえも私を裏切る。だが、少なくとも日向和彦にこの醜い姿を見られなくて済む。
その夜、私たちはホテルに戻った。海璃がブログ記事の執筆のために階下へ行っている間、私はようやく一人の時間を得た。
バスルームの鏡の前に立ち、慎重に選んだウィッグをゆっくりと外す。鏡の中の女はやつれていた。まばらな髪、こけた頬、虚ろな目。化学療法は、私の髪もかつての美しさも、すべてを奪い去った。
これが、本当の私。この醜い、死にゆく女。
震える手を伸ばし、つるりとした頭皮に触れると、涙が止めどなく溢れ出た。
その時、ドアをノックする音がした。
「柚葉、俺だ」
外から聞こえてきたのは、聞き覚えのある男性の声だった。
心臓が止まりそうになる。風間真だった。
私は急いでウィッグをかぶり、涙を拭ってドアを開けた。真は廊下に立ち、その顔には罪悪感と苦痛が満ちていた。
「どうしてここに?」
驚いて尋ねる。
「SNSを監視してたんだ」
真の声は重かった。
「柚葉、俺はもう続けられない。君がネットで攻撃されたり、こんな仕打ちに耐えているのを見ていると……」
彼の声が詰まった。大学の同級生で、長年私に密かな想いを寄せていた彼。病院の廊下で、化学療法の書類を手に絶望的な目で立ち尽くす私に偶然出くわし、涙ながらにあの「浮気」の芝居に協力してほしいと頼んだ時、彼は頷いてくれた。
今、彼は明らかに後悔していた。
「入って」
真が部屋に入ってくる。
「柚葉、本当にこれでいいのか?世界中に君が裏切り者だと思わせて」
「これが、日向和彦が完全に諦められる唯一の方法なの。同情でそばにいさせるわけにはいかない」
「でも、君はこんなに苦しんでるじゃないか!」
真が感情的に言った。
「友達には見捨てられ、ネットでは酷い誹謗中傷が……」
「だから何?」
私の声が、ふいに鋭くなった。
「どうせ私は死ぬのよ! 半年、真、たった半年なの! 一生苦しむくらいなら、半年の間、彼に憎まれた方がましよ!」
真は衝撃を受け、顔を青ざめさせた。
「あなたには分からない」
私は涙ながらに言った。
「私は彼を愛してる。愛しているからこそ、離れなきゃいけないの。彼のIPOは十年来の夢なのよ。私の病気で彼の足を引っ張ったり、私のせいで投資家たちに疑われたりするわけにはいかない」
「でも、日向和彦には真実を知る権利がある」
真が静かに言った。
「彼は君を愛している。本当の愛は、痛みを分かち合うことだろう」
「いいえ」
私は首を振り、涙で視界が滲んだ。
「これは私の決断なの。彼に同情されるくらいなら、憎まれた方がいい。彼には健康で美しかった香椎柚葉を覚えていてほしい。この死にゆく女じゃなくて」
真は私の目を深く見つめ、その瞳には涙が浮かんでいた。彼は歩み寄ると、私を優しく抱きしめた。
「君の決断を、尊重するよ」
彼が去った後、私は再び鏡の前に座り、そこに映る青白くやつれた女を見つめた。
世間は私を非難し、友人たちは私を裏切り、体は日に日に弱っていく。
だが、これは私が選んだ道。愛のために、私はすべてに耐える。
携帯を手に取ると、経済ニュースが目に入った。
「テクノールの株価は本日15%上昇。CEO日向和彦氏の優れた手腕により、IPOは順調に進行中」
それで十分だった。彼は成功し、前に進んでいるのだから。
