第3章

彼は足を止めかけ、結局そのまま立ち去った。

宴会場に残ったのは、妙にひねた静けさだけ。

視線が、探照灯みたいに一斉に水原茜へ突き刺さる。

侮蔑と、憐れみと。

――愛のために三番目になった、あの滑稽な茶番。ここにいる全員が目撃者だった。

森田浩介が涼宮佳奈を胸の宝物みたいに扱うところも。

水原茜という「代用品」が、どれほど卑屈にへりくだってきたかも。

「本命が帰ったのに、水原さんまだいるの? 森田さんが戻って「退職金」でも渡してくれるの待ってるわけ?」

木原夕子がねっとりと嫌味を落とし、沈黙を破る。

シャンパンを片手に、ゆっくり茜の前まで来て、愉快そうに口角を上げた。

周りも一緒になって囃し立てる。岩崎宇京が噴き出し、軽い調子で言った。

「茜ちゃん、ヤケ起こすなよ。森田さんの心にはまだお前もいるって」

「でも正直、森田さんと佳奈ちゃんはお似合いすぎるしさ。お前じゃ吊り下がれないよ、その木には」

「俺らを見ろよ。森田さんほど金はないけど、可愛がるのは上手いぜ?」

そう言いながら手を伸ばし、茜の頬に触れようとする。

水原茜は眉をわずかに寄せ、虫でも見るみたいに一瞥して、すっと身をずらして避けた。

笑みだけは、ぴくりとも崩れない。

宇京の下品な絡みなど相手にせず、茜は木原夕子へ向き直る。声は澄んで、静かだった。

「木原さん。涼宮さんの歓迎会なら、今日のオーダー代は木原さんが払う――そういう認識でいいですか」

木原夕子が目を瞬く。想定外だったのだろう。反射的に胸を張る。

「当然、私が――」

「それなら安心です」

茜は遮り、バッグからスマホを取り出す。迷いなく画面を開き、淡々と続けた。

「うちのオーダーメイド、ベーシックラインは6桁からです。素材と難易度で別途」

「涼宮さん用なら、みすぼらしいものは出せませんよね」

「木原さん、会社名義ですか個人ですか。前金は森田さんがすでに入金済みです。残金は後日、こちらから請求します」

「お忙しいでしょうし、いま決済していただいても問題ないですよね」

声色ひとつ変えない。悔しさも怒りも見えない。

まるで、自分が笑い者にされている当人ではないみたいに。

木原夕子の顔が赤くなったり青くなったりする。

「水原茜。金に困ってるのはわかるけど、さすがにえげつなくない? そんな小さい店で6桁?」

「木原さん、言葉に気をつけてください」

茜はスマホを下ろし、薄く目を細める。

「私の作品は全部、心血です。価格は明朗で、誤魔化しもありません」

「高いと思うなら、それは私のデザインがあなたの購買層に合ってないだけ。理解できます」

――要するに、買えないんですね。

「……っ!」

木原夕子が震えた。

茜は続けて、宇京へ視線を向ける。

「それから、そちらの方。さっき言いましたよね。森田さんと佳奈ちゃんの「幸せ」を祝うって」

「その一杯、私は飲みます」

飲み残しの赤ワインを取り、空へ軽く掲げる。くいっと飲み干し、空のグラスをテーブルに置いた。

カン、と乾いた音。

「飲みました。祝福もしました。だからもう、帰っていいですね」

「私はこういう名家の愛憎劇に興味がありません」

「空気も読めず、頭も回らない馬鹿には――もっと興味がない」

言い捨てて、荷物をまとめ、踵を返す。

淀みのない動き。落ち着ききった所作。

最初から、踏み絵だったのだ。名指しで呼び出された時点で、笑いものにする気だった。

その場の全員が呆然とする。

森田浩介の後ろを猫みたいにおとなしく付いて歩き、大きな声すら出せなかった水原茜――本当に同一人物か?

岩崎宇京の薄ら笑いも固まった。怖いほど、見知らぬ女に見える。

「水原茜、何が清高ぶってんのよ!」

木原夕子が甲高く叫ぶ。

「私たち知らないとでも? 店を始めた金だって森田さんが出したんでしょ! 何偉そうに!」

「森田さんに遊ばれてボロボロになった女なんて、私でも要らない!」

茜はバッグのファスナーを閉め、ようやく正面から見た。口元に、ごく薄い弧。

「第一に、この店は私のお金で始めました。森田浩介とは一銭も関係ない」

「第二に、もし彼のお金を使っていたとしても、それは私たちの問題。あなたが口を挟む資格はない」

「第三に、森田浩介と涼宮佳奈がどうなろうと当人同士の話。あなたたちは暇すぎて、ここで仲人ごっこ?」

「何。あなたたち、二人の再生父母か何かですか」

それきり視線もくれず、背筋を伸ばして出ていった。

姿が扉の向こうに消えても、宴会場はしばらく無音だった。

岩崎宇京がようやく吐き捨てる。

「……くそ。あの女、いつからあんなにイケてんだよ」

涼宮佳奈は酒で胃をやられ、散々苦しんでようやく眠った。

森田浩介は病院の長椅子に座り、煙草に火を点ける。

頭から離れないのは、去り際の水原茜の目。

氷霜みたいに冷たい。

静かすぎて、逆に腹が立つ。

理由もなく胸騒ぎがして、森田浩介は苛立って煙草を揉み消した。

水原茜が涼宮佳奈の代用品で、自分の玩具――それは周囲の誰もが知っている。

ただし、水原茜だけは知らなかった。

彼女は本気の恋だと思っていた。

この三年、水原茜は言われた通りに動いた。彼が東と言えば、西へは行かない。

たまに子猫みたいに拗ねても、許容範囲だった。

今日の件は確かにやりすぎだ。

自分にも非がある――そう思うから、多少は宥めてやるつもりだった。

女の機嫌なんて、結局は「補償」が欲しいだけだ。バッグでも買って、甘い言葉を少しやれば戻る。

夜10時。森田浩介はバラの花束を抱えて邸宅へ戻った。

扉を開けると、真っ暗で冷えた空気。いつもあった温かさがない。

テーブルに料理はなく、ソファに見慣れた姿もない。

「茜?」

呼んでも返事はない。

灯りを点け、寝室へ向かうほど胸の違和感が膨らんでいく。

クローゼットを開けた瞬間、背筋がぞわりとした。

女物の服が――空っぽだった。

森田浩介は玄関へ駆け戻り、靴箱を見下ろす。

予備の鍵が、きちんと置かれている。

彼はスマホを掴み、ブラックリストからあの番号を外した。

「……もしもし」

受話口の水原茜の声は、遠く、わずかに面倒そうだった。

「どこにいる」

森田浩介は怒りを押し殺し、声を張り詰めさせる。

「何か用?」

その淡々とした返しが、火に油を注いだ。

「二度言わせるな」

沈黙のあと、茜が軽く言う。

「会社の急な出張。慌てて出た」

「出張?」

森田浩介は疑いながら言う。「出張で、服全部持っていくのか」

「荷物は大したことない。ついで」

感情のない声。

「なに。私が逃げるとでも思った?」

森田浩介は息を吐いた。

水原茜が自分から離れるはずがない――そう思い込む。出張だろう。

「……まあいい。いつ戻る」

「気分次第」

通話はそこで切れ、ツーッという虚しい音だけが残った。

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