紹介
熱を出しながら、彼のためにご飯を作った。救急病院から二十三回も電話をかけた。全部、着信拒否だった——あの時、彼はあの女のそばにいた。
だから私は、鍵をテーブルの上に置いて、振り返らずに出て行った。
その後、私が結婚すると聞いた彼は、鼻で笑ってこう言った。
「あの子が結婚式?ご祝儀でも届けてやるか。」
彼は一度も、私のことを知ろうとしなかった。婚約者が誰なのかも、私の家族のことも、聞こうともしなかった。
けれど――真実が明らかになったあの日、膝から崩れ落ちて悔いたのは、どうしてあの男の方だったのだろう。
チャプター 1
豪雨が叩きつけるように降り、雷鳴が腹の底まで響く。
水原茜が森田浩介に傘を届けに来たとき、ちょうど彼らは酒を飲みながらサイコロ遊びをしていた。負けた者は、自分でも誰にも言っていない「とっておきの暴露話」をひとつ、ぶちまける――そんなルールらしい。
負けたのは、森田浩介だった。
彼は煙草に火を点け、白い煙の向こうで少し黙る。それから声を押し殺すように言った。
「俺、愛のために……愛人になったことがある」
その瞬間、個室が沸騰した。
森田浩介だぞ?
H市屈指の名門の跡取り。金も権力も何もかも手にして、女だって選び放題の男が――愛のために、愛人?
どれだけ惚れてたんだよ。
いちばんはしゃいだのは、森田浩介といちばん親しい岩崎宇京だった。
「涼宮佳奈だろ? 絶対涼宮佳奈! 昔さ、森田さんが涼宮佳奈のこと好きで、涼宮佳奈は江原信之が好きでさ。だから森田さんが愛のために愛人! やるじゃん森田さん! 純愛戦神!」
どっと笑いが起きる。
水原茜は入口に立ち尽くした。
頭から氷水を浴びせられたみたいに、全身が凍りつく。
慌てて来たせいで服は雨でぐしょ濡れだ。寒さで震えが止まらず、胃の奥が勝手にねじれるように痛み出す。
それでも個室の騒ぎは続いた。
「思い出した! 10日の日に涼宮佳奈がSNSで手つなぎ写真、公開したじゃん? あれ相手お前じゃね?」別の男が叫ぶ。「涼宮佳奈が帰国したなら、森田さんが真っ先に迎えに行かないわけないもんな!」
岩崎宇京が口笛を吹く。
「うわぁ。森田さん、正直に言えよ? 乾いた薪に火がついて一直線――ってやつ?」
室内がうるさすぎて、森田浩介が何と答えたのか水原茜には聞き取れなかった。ただ、胃が焼けるように痛い。
まるで臓腑をミンチ機に放り込まれたみたいに、裂けて、息が詰まる。
10日。
あの日は、彼女が胃から出血して救急搬送された日だ。森田浩介に何度電話しても拒否され、メッセージも既読にならない。最後にはブロックまでされた。
忙しいのだと思って、それ以上は言わなかった。
――本当は、彼の高嶺の花に付き添っていた。
水原茜は床にしゃがみ込み、顔色は紙みたいに白い。冷や汗が止まらない。それでも刺さるような声はまだ続く。
「でもさ、森田さんが涼宮佳奈とヨリ戻すなら、水原茜はどうすんの?」
「どうするって? 水原茜が森田さんに取り入れたの、涼宮佳奈に七分似た顔があるからだろ。本人が帰ってきたら、替え玉は当然、遠くへ転がってけって話」岩崎宇京がにやにや笑う。「な、森田さん?」
水原茜は最後の力で否定を待った。
けれど意識が落ちるまで、森田浩介の否定はひとつも聞こえてこなかった。
*
水原茜が入院した五日間、森田浩介からは一通のメッセージも届かなかった。
涙が目尻を滑り落ちる。
もう、手を放さなきゃ。
彼女はスマホを取り出し、三年間連絡していない番号にかけた。
「……お父さん。私、間違ってた。あと一か月だけ時間をちょうだい。帰って……政略結婚、受ける」
*
退院手続きを終え、森田浩介との家へ戻った。荷物をまとめて出ていくために。
玄関を入った瞬間、森田浩介がエプロン姿でキッチンに立っているのが見えた。コンロ脇のスマホにはビデオ通話。画面の中には笑顔の女。
水原茜は自嘲気味に視線を落とす。
――料理、できるんだ。
三年間、自分が病気でも台所に立った光景が頭をよぎった。森田浩介の舌は厄介で、彼女の料理しか食べない。四十度の高熱でも、彼女は鍋を振った。
森田浩介はそれを当然のように受け取っていた。
胸が重い。
愛されているか、いないか――もう十分にわかる。
背後の気配に森田浩介は気づいたが、投げやりに一言だけ。
「戻ったのか」
それきり、画面の女と楽しそうに笑い合う。
その笑顔は、彼女が一度も見たことのないものだった。
もう、何を迷う必要がある。
水原茜は部屋へ戻り、自分の荷物を淡々とまとめる。するとスマホに同じ相手から連続してメッセージが届いた。
いつ追加されたのか覚えもないが、連絡先の奥でずっと眠っていた相手。今夜が初めての通知だった。
森田浩介と誰かが密着して写る写真が数枚。そこに映る顔は、さっきのビデオ通話の女だった。
【水原さんって本当に大らかですね。私の夫なら絶対監視しますけど。もちろん、前提として夫が私を愛してるなら、ですけどね】
続けて――
【そういえば、前に浩介と病院に行った時、偶然あなたが入院してるの見ました。何の病気だったんですか?】
水原茜は返さない。相手は勝手に言葉を重ねてくる。
【浩介ってそこが欠点で、私以外には全然興味ないんです。責めないであげて? 今度私が叱っておきますね】
【それと、浩介の料理って本当に上手なんですよ。水原さん、食べたことあります?】
一言一言が挑発だった。
森田浩介の高嶺の花――この程度。
水原茜はスーツケースを引いて階下へ降りる。森田浩介はまだキッチンで忙しそうにしていて、物音がしても顔すら上げない。
水原茜は小さく笑った。言い訳すら要らない。
靴箱の上に家の鍵を置き、三年間自分を閉じ込めていた扉をそっと閉める。
あの男ごと、置いていく。
扉が閉まる音でようやく森田浩介は水原茜が出たことに気づいた。今日の水原茜はどこかおかしい――そんな気が一瞬よぎる。だがそれもすぐ消え、彼は料理を詰めて袋を結んだ。
涼宮佳奈は胃が弱い。冷えたものは駄目だ。早く届けないと。
水原茜はホテルへ向かった。シャワーを浴び終えた頃、LINEにまた通知が来る。
家出したとき父が紹介した政略結婚の相手からだ。
浜原恵也:【急に戻るって決めたの、何かあった?】
浜原恵也とは幼なじみ。水原茜にとっては「近所のお兄ちゃん」で、恋愛感情など抱いたことがない。だからこそ当時、結婚から逃げた。後始末も浜原恵也がしてくれた。
彼も同じだと思っていた。記憶の中で、浜原恵也には好きな女の子がいると言っていたから。
水原茜:【問題ない。自分で片づけられる】
浜原恵也:【わかった。何かあればいつでも言って】
水原茜:【ありがとう、恵也さん】
翌朝、店のスタッフからの電話で叩き起こされた。
「老板、大変です。お客様がオーダーで、どうしてもあなたに来てほしいって。住所送りますね!」
「了解」
水原茜は大学でデザインを学んだ。家を飛び出してから自分で店を開き、オーダーメイド専門でやってきた。デザイナーは雇っているが、彼女指名は多い。
深く考えずに支度をして、指定された場所へ向かう。
小さな宴会場だった。
中へ入った瞬間、写真の女が森田浩介の腕に絡みついているのが見えた。
恋人同士みたいに、息が近い。
視線がぶつかる。
森田浩介が固まった。
「……なんでお前がここにいる」
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「――断る」













