第5章 自業自得

「どうして私を助けるんですか」

目黒千音は立花一夜を見つめた。瞳の奥にあるのは、疑いとためらい。

「信じるかどうかは、お前次第だ」

立花一夜は静かな顔のまま、底の見えない眼差しを返す。

そう言うと、彼はゆっくりポケットから名刺を取り出し、卓上に置いた。

指先で軽く押す。名刺はすべるように、千音の前で止まった。

目黒千音は手を伸ばし、少し迷ってから名刺をつまみ上げる。視線を落とした。

――曽我介。

胸の中で名前をなぞった瞬間、驚きが走る。

世界的に名の知れた、あのトップドクター。医学界では雷鳴のように響く名で、難治の病すら「治した」と噂される人物だ。

だが立花一夜の立場を思えば、知り合いでも不思議ではない。

千音が名刺を見つめたまま黙っていると、一夜の目がわずかに陰る。まだ疑っているとでも思ったのだろう。

「彼は俺の友人だ。安心しろ」

「ありがとうございます、立花社長。……末永く、よろしくお願いいたします」

千音は名刺を丁寧にしまった。胸の内では、いくつもの感情が絡み合って渦を巻く。

密かに立花家へ入ること。手を組むこと。

自分だけが得をして、失うものが何もない――そんな話が、むしろ怖い。

それでも。自分のために。夏目家の産業を取り戻すために。

賭ける価値はある。

立花一夜は小さくうなずくと、手を上げて護衛へ合図した。

床に転がる松本灯を連れていけ、と。

「待って」

目黒千音の瞳がすっと光る。口元がわずかに持ち上がり、含みのある笑みになった。

「その人……私に渡してもらえますか」

立花一夜は淡々とうなずく。

「何か、手伝うことは?」

疑いもしない。咎める気配もない。

その態度に、千音は一瞬だけ言葉を失った。――まるで、許されているみたいに。

「護衛の方に、彼と「催淫香薰」を、目黒思月の控室へ届けてもらいたいんです」

千音は静かに言う。

「自業自得ってやつを、見せてあげたい」

立花一夜は一度だけ千音を見て、軽く手を振った。

護衛たちは無言で動き出す。

……

護衛が車椅子の立花一夜を押して去っていくと、目黒千音はソファへ腰を下ろした。

手近にあった名著を取って、ページをめくる。余裕のある仕草。

しばらくして、廊下が騒がしくなった。どたどたと足音が重なり、甲高い声が突き刺さる。

「千音はもうすぐ婚約でしょ? 皆さんに花嫁姿を見せてあげようと思ってねえ」

嬉しさを隠しきれない声。まるで、千音が破滅する光景を先に見ているかのようだ。

扉が乱暴に押し開けられる。

目黒千音はゆっくり顔を上げた。

継母が大勢の客を引き連れて、なだれ込んでくる。中には、新谷浩辰の両親もいた。

「千音、どうして……」

継母の笑みが、顔に張り付いたまま固まる。用意していた罵声が、喉の奥で詰まったのだろう。

そこにあるべき「惨状」はない。

千音はただ本を読み、陽の光を受けて静かに座っていた。絵になるほど穏やかに。

「私が、どうかしました?」

千音は本を閉じ、淡然と立ち上がる。

それから、思い出したように言った。

「そういえば、おばさん。思月が控室で私を呼んでました」

澄んだ声が、さらに刺を含む。

「ちょうど皆さん揃ってますし、一緒に行きません?」

その瞬間、継母の胸に不吉なものが走った。

目黒千音の口元がゆっくり吊り上がる。意味深な笑み。

彼女は軽やかに、優雅に歩き出す。

「だめ!」

継母が反射的に声を荒げ、腕を伸ばして道を塞いだ。

怪訝な視線が集まる。継母は我に返って取り繕う。

「私は皆さんに、婚約する花嫁をお見せしに来たのよ。思月のところは……あなた一人で行けばいいわ」

「でも、思月だけじゃありませんよ」

千音は無垢な顔のまま続ける。

「浩辰が、付き添ってるって」

その一言で、客たちの顔に「なるほど」が浮かぶ。

さっき会場で千音が告発した「義妹が婚約者を誘惑している」が本当なら――控室で、しかも今、という想像が勝手に完成する。

同情の視線が千音に向けられた。

千音はそれを察したのか、わざとらしく目元を曇らせてみせる。

「なに? 浩辰が思月の控室に?」

新谷浩辰の両親が耐えきれず、継母を押しのけて歩き出した。

ぞろぞろと人の波が続く。

継母も引きつった顔でついていくしかない。心の中で必死に祈りながら。――頼むから、思月のところで何も起きていませんように。

目黒千音は最後尾で、そっと笑った。

前方に待つ「見もの」を、ただ待つ。

扉が開いた瞬間、悲鳴に似た驚愕が上がった。

「うそ……!」

部屋は衣服が散らばり、まるで戦場。

ソファでは裸の男女が絡み合い、頬は情欲の赤で染まっている。

さらに床には、衣服の乱れた男が一人、意識を失って倒れていた。

裸の女は目黒思月。

床の男は――新谷浩辰。

継母が引きつった叫びを上げ、顔面が蒼白になる。

「思月……どうして! ちゃんと段取りしたのに!」

誰もが衝撃に呑まれていて、その言葉の異様さに気づかない。

新谷浩辰の両親は青ざめ、息子へ駆け寄った。

「浩辰! 浩辰!」

新谷夫人が必死に揺さぶる。

「大丈夫!? いったい何があったの!?」

そこへ目黒千音が、震える声を装って口を挟んだ。

「浩辰は、思月と仕事の相談をするって……」

目を見開き、息を呑むふり。

「でも、どうして松本灯さんが? 思月と噂のある人ですよね。それに……二人とも、裸で……」

ざわり、と空気が汚れる。

下卑た憶測が飛び交い、蔑みの視線が突き刺さる。目黒グループの令嬢が、こんな真似を――という驚きが混ざって、さらに醜くなる。

「このクズ! 黙りなさい!」

継母が怒鳴り、目黒千音へ食ってかかった。

「思月を陥れたのはあなたでしょ!」

継母が娘を引き剥がそうとするが、薬で理性を失った松本灯は思月にしがみついて離れない。思月のほうも、夢中で絡みつく。

女一人の力ではどうにもならず、継母は叫ぶ。

「ぼさっとしてないで手を貸しなさい!」

周囲が加勢し、ようやく二人を引き剥がした。

「まだ……行かないで……!」

目黒思月がうわ言のように喘ぐ。

視線がさらに冷たくなる。

継母は歯を食いしばり、目黒思月の頬を平手で叩いた。

ぱんっ、と乾いた音。

「……ママ」

思月が朦朧と目を開き、ひしめく客の顔を見て凍りつく。

次の瞬間、悲鳴を上げ、慌てて服で身体を隠した。

その騒ぎで新谷浩辰も目を覚ました。

まぶたを上げ、目の前の光景を見た途端――顔が歪む。

恋人の目黒思月と松本灯が裸。

それだけで、何が起きたか分かってしまったのだ。

浩辰は跳ね起き、目黒思月の髪を掴む勢いで詰め寄った。

「ふざけんな! どういうことだ!」

喉が裂けるほど怒鳴る。

「松本灯との噂は全部ウソだって言ったよな!? こいつとグルになって俺を殴って気絶させて、目の前で浮気かよ!」

「説明しろ!」

浩辰の目が血走る。

「できねえなら……ただじゃ済まさねえ!」

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