第6章 強要
目黒思月は恐怖に耐えきれず、わっと泣き崩れた。涙は尽きる気配もなく、ぽろぽろと頬を伝って落ちていく。
「浩辰お兄ちゃん、私、何も知らない……! こんなに愛してるのに、どうして裏切るなんてできるの!」
「現場が全部物語ってるだろ。まだ言い逃れする気か?」
目の前で繰り広げられる同士討ちの醜態に、目黒千音は胸の奥に溜まっていた鬱屈が、少しだけ晴れていくのを感じた。
考えるまでもない。新谷浩辰を気絶させたのは、立花一夜が部下にやらせたに決まっている。
……よくやった。
千音が静かに身を引こうとした、そのとき。
思月の視線が彼女を捉え、怒りに燃えた瞳のまま指を突きつけた。
「こいつよ! 絶対こいつ、このクズ! 私と浩辰お兄ちゃんが仲良いのが妬ましくて、はめたんだ!」
一斉に、会場の視線が「今まさに立ち去ろうとしていた」目黒千音へと集中した。
「お姉ちゃん、ひどすぎるよ……! 浩辰お兄ちゃんが私を大事にするからって、嫉妬して私を潰そうとしたんでしょ! 前に合成画像で陥れたのもそう……それだけじゃなくて、あなたの愛人の松本灯に、私の純潔まで汚させて……!」
断定口調。迫真の演技。
――真相を知らなければ、拍手しそうになるくらいだ。
新谷浩辰まで眉を寄せた。
「……お前がやったのか?」
「違う!」
千音は即座に否定する。瞳には無垢と委屈をきっちり宿して。
「浩辰、私、松本灯なんて知らない。どうして私の言うことなんか聞くの?」
そもそも、千音に身代わりを押しつけたのは浩辰本人だ。彼女がどれほど無実か、いちばん分かっているはずなのに。
「嘘よ! あなたしかいない! 松本灯が私の控室にいるわけない、私は……」
思月は言いかけて、はっと口をつぐんだ。
ここで「千音を陥れようとして、逆に自分がはめられた」なんて口にしたら、終わりだ。
千音はくすりと笑う。嘲りの色を、あえて隠さない。
「そこまで言い切るなんて。松本灯と、ずいぶん頻繁に連絡取ってるんだね。噂は本当でしょう? だって、私の「写真」は合成じゃない。記者のメールから引っ張り出したものだもの」
「目黒思月! 俺を騙したのか!」
浩辰の顔が醜く歪む。まるで浮気された夫みたいに。
「違うの、浩辰お兄ちゃん! 信じて……! 私、ずっとあなたのそばにいたでしょ? 私がどんな人間か、分かってるよね!」
怒りを買うのが怖くて、思月は口を滑らせた。
千音は、そこでわざと傷ついた声を出す。
「ずっと……? 浩辰。私は思月があなたを誘惑しただけだと思ってた。まさか、私に隠れてそんなに長い間――二人、ずっと一緒だったの?」
思月は自分の失言に気づき、青ざめた。だが次の瞬間、逆に開き直ったように涙を滲ませる。
どうして、このブスが新谷家の若奥様の席に座っていられるの?
どうして自分は、何年も「影」でいなきゃいけなかったの?
「お姉ちゃん……私と浩辰お兄ちゃんは、本気で愛し合ってるの。責めるなら私を責めて……」
「そう。愛し合ってるなら、私は退くよ。二人を応援する」
思月は固まった。
――え?
怒鳴って、泣きわめいて、私を罵るはずじゃ……?
筋書きと違う反応に、思月の表情が一瞬だけ歪んだ。
「……お姉ちゃん。そんな簡単に浩辰お兄ちゃんを譲るなんて。あなた、本当に何とも思ってないの?」
千音は内心で笑う。
「そこまで言われたら、私が退かないほうが悪者でしょう? だから、泣く泣く譲るの」
そう言ってから、千音はゆっくりと浩辰を見た。淡い未練を瞳に滲ませて。
浩辰は言葉を失った。
――千音は、こんなにも自分を……?
千音は視線を落とし、独り言のように続ける。
「浩辰。思月が『愛し合ってる』って言うなら、今日からあなたは私の婚約者じゃない。……あなたを、思月に譲る」
会場の空気が凍ったあと、じわじわと視線が思月へ刺さっていく。
義理の兄を誘惑しただけでも最悪なのに、実姉に婚約者を譲れと迫るなんて――恥知らずにもほどがある。
新谷浩辰の両親の顔色が、みるみる悪くなった。
端正に立つ目黒千音と、裸で不貞に溺れていた目黒思月。
その対比は、あまりにも残酷で鮮明だ。
――嫁にするなら、どちらか。答えはひとつ。
新谷浩辰の父が一歩前に出て、千音を労わるように言った。
「千音さん、辛い思いをさせたな。だが、浩辰の婚約者は君だけだ」
「私には、ご縁がなかったんです……新谷家の嫁にはなれません」
千音はさらに俯き、口元の笑みがこぼれそうになるのを必死で隠した。
新谷家の嫁?
誰が好き好んで。
母も続けて言い放つ。
「全部誤解よ。私たちが、こんな女を新谷家に入れるわけがないでしょう」
そして思月を睨みつけた。
「この恥知らず! うちの息子に手を出したうえ、婚約まで壊そうとするなんて!」
「おばさん、違うの……!」
思月は泣き叫ぶ。
だが浩辰も、この瞬間ようやく悟った。
目黒千音を失ってはいけない。彼女の身分も地位も、自分の事業に必要だ。
「千音、怒るな。俺と思月は何もない。あいつが勝手に言ってるだけだ。俺が愛してるのはお前だけだ」
浩辰は慌てて千音のそばへ寄り、取り繕う。
千音はわざと揺れる声で問う。
「浩辰……本当に、思月を愛してないの?」
苦しそうに目線を二人の間で揺らし、決断できない女を演じる。吐き気がするほどの厚顔さだが、それでも表情は崩さない。
「千音、婚約者の俺を信じないのか? 俺たちの絆に、他人が割り込めるわけないだろ」
さらに、思月へ冷たい刃を突き立てる。
「それに、思月は松本灯と皆の前であんなことしてた。そんな女を愛するわけないだろ!」
焦った浩辰は千音の腕を掴もうと手を伸ばす。
千音は涙を拭うふりをして、自然に身をずらし、その手をすり抜けた。
浩辰の言葉を聞いた思月は、怒りで全身を震わせる。
――捨てられた。
この男は自分を選ぶと信じていたのに、今さら千音のほうへ縋るなんて。
思月の視界がぐらりと揺れ、目の前が暗くなる。
「思月!」
継母が甲高く叫び、人をかき分けて思月を抱え、そのまま連れ出した。
騒然としたまま、ひとまずその場の茶番は幕を下ろした。
だが――目黒千音の計画は、まだ終わっていない。
千音は浩辰を見据え、瞳に決意の光を宿す。
「私、新谷グループの執行部長を辞任します」
「なに……?」
新谷家の面々が凍りついた。
新谷グループの今の繁栄が、誰の手で築かれたか。誰もが知っている。
千音は身を粉にして働き、それでいて受け取ったのは、たった三年分の固定給だけ。
――自分でも笑えてくる。
千音は傷ついたふりのまま言葉を続ける。
「今日の浩辰と妹のこと、少し冷静になりたいんです。婚約式も……来週に延期でお願いします」
息子がやらかしたうえ、これだけの醜聞を大勢の客前で晒した。
新谷家は歯を食いしばり、同意するしかなかった。
……一方。
別室の監視室で、立花一夜は複数のモニターを前に静かに腰掛け、すべてを見届けていた。
海のように深い瞳に、ひと筋の賞賛がよぎる。
だが同時に、胸の奥に疑念が生まれる。
――目黒千音は、本当に寧々なのか。
