第1章

「はい、こちら警察です。どうされましたか?」

 受話器越しに聞こえてきたのは、言葉ではなかった。それは、むせび泣くような生々しい嗚咽だった。

「娘が――」途切れ途切れで、まともな言葉になっていない。

「息をしていないんです……お願い……助けて……」

「奥さん、ご住所は?」

「楓通り二丁目十七番……桜木町……お願い、早く……」

 その後、彼女は完全に泣き崩れ、呼吸もままならないほど激しく嗚咽し始めた。

 神崎涼はパトカーの助手席に座り、通信指令室が救急車を手配し、詳細を確認するのを聞いていた。無線からはまだあの女性の泣き声が響いており、そのあまりの悲痛さに、車内の空気までが重く感じられた。

「高橋さんのところも気の毒にな」運転席の松本浩巡査部長がサイレンを切りながら言った。

「健一さんはロータリークラブの会長で、静子さんは裁判所勤めだ。娘さんは何年も前から病気でな――ずっと寝たきりだったはずだ」

 涼は何も答えなかった。警察官になって三ヶ月、彼はまだベテラン刑事たちのように、感情を切り離して仕事に向き合う術を身につけてはいなかった。

 パトカーは、手入れの行き届いた芝生に陽光が斜めに差し込む、まるで雑誌から抜け出してきたかのような住宅街を通り抜けた。二丁目十七番地は、ポーチに花が咲き乱れる、白いヴィクトリア調の瀟洒な家だった。

 あたりは、不気味なほど静まり返っていた。

 玄関先では、高橋健一が待っていた。カシミヤのカーディガンという部屋着姿で、髪は乱れ、ひどく狼狽している様子だった。パトカーを見るなり、彼は半ば走り、半ばつまずくようにしてこちらへ向かってきた。

「お巡りさん――ああ、来てくださってよかった――」その声はひび割れていた。

「恵が――娘が――」

 彼は言葉を継げず、目元を拭った。

 松本が彼を支えるように言った。

「大丈夫ですよ、高橋さん。救急車もすぐ後ろから来ています」

 健一は頷いたが、その足取りは覚束なく、今にも倒れそうだった。彼に案内されて玄関ホールを抜けると、震える手でリビングのドアノブを回した。

「中に静子が……妻は……すっかり取り乱してしまって……」

 部屋の中から、くぐもった泣き声が漏れ聞こえてきた。

 涼が足を踏み入れると、絨毯の上にうずくまる中年女性の姿があった。両手で顔を覆い、体を丸く縮こまらせている。全身を震わせて嗚咽し、指の隙間から悲痛な声が漏れていた。

「静子……」健一自身も声を震わせながら、妻に歩み寄った。

「医者からも言われていただろう……時間の問題だって……」

「違うわ――私のせいよ――」静子が弾かれたように顔を上げた。涙に濡れた顔は、目も開けられないほど腫れ上がっている。

「私が出かけたりしなければ――あの子を置いていかなければ――恵、ごめんね、本当にごめんなさい――」

 彼女はそれ以上言葉を続けられず、ガタガタと全身を震わせた。健一も彼女のそばに膝をついて抱き寄せ、二人はすがるように身を寄せ合った。

 涼は傍らに立ち尽くし、胸が締め付けられるのを感じていた。

 松本が静かに尋ねた。

「娘さんはどちらに?」

 健一は真っ赤に充血した目を上げ、リビングの中央を指差した。

「あそこです……あそこに座ってテレビを見るのが好きで……毎日あそこで……」

 彼は最後まで言い切れず、再びうなだれて肩を震わせた。

 涼は彼の指差した方向へ視線を向けた。

 リビングは塵一つなく片付いていた。床から天井まである大きな窓から陽光が降り注ぎ、シミ一つないペルシャ絨毯を照らしている。マントルピースの上には家族写真が飾られていた。テレビはつけっぱなしになっており、子供向けのアニメが流れている。

 部屋の中央には、ベージュのレザーソファが置かれていた。

 そのソファに、一人の女がドアに背を向けて座っていた。微動だにしない。

「動かすのが怖かったんです」静子が涙声で震えながら言った。

「お医者様が……骨がとても脆くなっているからと……傷つけてしまうんじゃないかって……」

「それで正解ですよ」と松本が応じた。

 涼はゆっくりと近づいていった。

 部屋の中には微かな匂いが漂っていた。強烈ではないが、どこか奇妙な――芳香剤のまとわりつくような甘い香りが、何か別の、淀んだ不穏な臭いを誤魔化そうとしているかのようだった。

「普段から、この階にいらっしゃったんですか?」涼はできるだけ穏やかな声で尋ねた。

「ええ……」健一の声はまだ震えていた。

「恵は二階の自分の部屋を嫌がって……ここが好きだったんです。テレビをつけておくのが好きで……だから、好きなようにさせて……」

「昨日出かけた時は元気だったんです、本当に元気だったのよ」静子が突然口を挟んだ。

「今日の午後帰ってきて、お昼ご飯にしようって声をかけたら……いつもみたいに座っていたのに、返事がなくて、それで――」

 彼女は言葉を詰まらせ、夫の肩に顔を埋めた。

 健一は妻をきつく抱きしめた。

「あの子の病気には……私たちも、できる限りのことはしたんです……」

 涼はソファの横へと回り込んだ。女は大きめのTシャツを着ており、生気のない乱れた髪を垂らし、頭をわずかに前へ傾け、テレビの方へ顔を向けていた。この角度から見ると、ただ眠っているだけのように見える。

 彼はさらに一歩踏み出した。

 匂いが強くなった。鼻を突くほどではないが、思わず後ずさりしたくなるような臭いだ。

「ああ、恵……」静子の泣き声が再び大きくなった。

「本当にごめんなさい……」

 涼は深呼吸をして、ソファの正面へと回った。

 そして、見てしまった。

 周囲のすべてが遠のいていく。

 陽光は変わらず絨毯に温かな光だまりを作っていたが、涼の背筋には氷のような悪寒が走った。

 これは、たった今死んだばかりの遺体ではない。

 到底、そんなものではなかった。

 松本が隣にやって来た。ベテランの巡査部長の呼吸が急に荒くなり、反射的に涼の腕を掴むと、その指がぎゅっと食い込んだ。

「なんてことだ……」松本が息を呑んだ。

 テレビの中では、アニメのキャラクターたちが陽気に歌っている。

 涼は何かを言おうとし、動こうとしたが、体が言うことを聞かなかった。ただ目の前の惨状を見つめることしかできず、一つの考えだけが頭の中でガンガンと鳴り響いていた。

 これは事故じゃない。

 絶対に、事故なんかじゃない。

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