第3章

「ジョアンナ? 大丈夫か?」

 ロレンツォの声が、私を現実へと引き戻す。

 乱れた呼吸はまだ整わない。こみ上げる記憶が、まるで鋭利な刃物のように胸の奥を掻き回していた。

「ええ、平気よ」私は機械的に答える。「ただ、マルコのことを思い出していただけ」

 ロレンツォは腕に力を込め、私を強く抱き寄せた。

「ああ。今日という日が、君にとってどれだけ辛いか分かっているつもりだ」

「そう?」

 空気を切り裂くような、ガラスの破片めいた鋭い声。クラウディアだ。

「ジョアンナ、あなたって本当に女優ね」

「クラウディア」

 ロレンツォの声が低く沈み、明確な警告の色を帯びる。

「何よ?」彼女は冷ややかに笑った。「七年よ? 七年経っても子供一人産めないのよ。ロレンツォは慈悲深すぎるわ。私なら、そんな出来損ないの役立たず、とっくに追い出し――」

 パァンッ!

 乾いた破裂音が響き渡り、樹上のカラスが一斉に飛び立った。

 ロレンツォの手が彼女の頬を打ったのだ。その勢いに、私でさえ思わず身を縮める。

「それ以上喋ってみろ」

 彼は静かに、しかし致命的な冷気を孕んだ声で告げた。

「二度と口がきけないようにしてやる」

 クラウディアは打たれた頬を押さえ、瞳に怒りの炎を宿して彼を睨みつけた。だが、これ以上彼を刺激するのは得策ではないと悟ったようだ。

「ロレンツォ・コルヴィーノ!」

 マリアが血相を変えて駆け寄ってくる。

「何てことを! 彼女はあなたのお兄さんの子供を身籠っているのよ!」

「妻を侮辱したのが先だ」ロレンツォは冷たく言い放つ。

 マリアは皮肉たっぷりに鼻で笑った。

「妻ですって? 卵一つ産めない雌鶏を――」

「いい加減にしろ」

 ロレンツォは私の手首を掴んだ。「行くぞ」

 ほとんど引きずられるようにして、その場を離れる。

 去り際に一度だけ振り返ると、クラウディアが顔を上げ、口元に勝ち誇ったような笑みを浮かべているのが見えた。

 私の肌は、かつてないほどの冷たさを感じていた。

 マイバッハは墓地を後にし、五番街へと滑り込む。

「今年の記念日のプレゼントは、俺自身が選びたいんだ」

 ハンドルを握るロレンツォが言った。

「ハリー・ウィンストンに、新作のピンクダイヤモンドが入ったらしい――」

 ブブッ。私のスマートフォンが震える。

 知らない番号からだ。

「今日の演技、最高だったわね。ロレンツォのあの間抜けな顔、笑い出しそうになったわ」

 続いてもう一通。

「あの平手打ちが何? これっぽっちも痛くないわ。私のお腹にいるのは、コルヴィーノ家、唯一の跡取りなんだから」

 さらに三通目。

「もし私が『お腹が痛い』って言ったら、彼はすぐにあなたを放り出して飛んでくるわよ。賭けてみる?」

 ロレンツォが横目で私を見た。「誰からだ?」

「迷惑メールよ」

 私は画面を消す。車はハリー・ウィンストンの重厚なエントランスの前に停まった。

「いらっしゃいませ、コルヴィーノ様、奥様!」

 店員たちが恭しく出迎える。

 ロレンツォは微笑んだ。「今年の新作を見せてくれ」

 過去六年間、彼は毎年私をここへ連れてきた。

 その一つひとつが、「愛の証明」だったはずの指輪。

 今思えば、それらはすべて贖罪のための免罪符にすぎなかったのだ。

「奥様、こちらはいかがでしょう」

 店員が恭しくケースを開く。「七カラットのファンシーピンク、周囲には――」

 その時、ロレンツォの携帯が鳴った。

 画面には「クラウディア-緊急」の文字。

 通話ボタンを押した彼の顔色が、瞬時に変わる。

「なんだって? 今すぐか?」

 電話を切ると、彼は店員に向き直った。

「これを包んでおいてくれ」

 そして私を見る。「すまない、ジョアンナ。埠頭の方でトラブルが――」

「約束したはずよ」

 私の声は、ひどく落ち着いていた。

 ロレンツォが動きを止める。

 彼は私を見つめた。その瞳には罪悪感、躊躇い、そして微かな恐怖のようなものが混じっていた。

 今ここを去れば、言葉にできない大切な何かを失う――そう予感しているかのように。

 だが、彼の携帯が再び無慈悲に鳴り響く。

「すぐに戻る。約束する」

 彼は慌ただしく私の額にキスを落とし、店を飛び出していった。

 VIPルームに、私だけが取り残される。

 スマホが震えた。

 クラウディアから動画が送られてきている。

 画面の中には、ベビーベッドの脇に座るロレンツォの姿。彼の手は、彼女の膨らんだ腹部に添えられている。

「ほら、聞いて。動いてるわ」

 ロレンツォの顔に、驚きと喜びが広がる。

「この子が生まれたら、あなたのことをパパって呼ばせてもいい?」

 クラウディアが甘えるような声で囁く。

「一族の人間は、隠し子だって陰口を叩くでしょうけど……」

 ロレンツォは少しの間、沈黙した。

「ああ、いいだろう。マルコもそれを望むはずだ」

 動画の最後、クラウディアはカメラに向かって投げキッスをして見せた。その唇の動きは、はっきりとこう告げていた。

「見た? あなたのものだったとしても、私が欲しいと言えば、それは私のものになるのよ」

 スマホが手から滑り落ちた。

 ロレンツォが私にしてくれたことの数々が脳裏をよぎる。

 嵐の夜、サクランボを買うために往復三時間も車を走らせてくれたこと。

 私へのストーカーを、入院するまで叩きのめしてくれたこと。

 母の葬儀で、「一生俺が守る」と抱きしめてくれたこと。

 彼が私にしてくれるすべてのことは、彼女のためにもできることだったのだ。

「奥様?」店員が心配そうに声をかけてくる。

「その指輪、包んでちょうだい」

 私は立ち上がった。

 行こう。

 この場所から。

 この嘘まみれの世界から。

 愛という名の、空っぽの箱から。

 もう、十分だ。

 その夜、ロレンツォが帰宅したとき、私はすでに客室のベッドに入っていた。

 結婚してから一度も、寝室を別にしたことなどなかったのに。

 けれど今夜は、彼と顔を合わせることに耐えられなかった。

「どうしてこんな所に?」彼がドアを開けて入ってくる。

「主寝室は暑すぎるから」

 ベッドが沈み込む。背後から彼が抱きついてきた。

「たった数時間会わなかっただけなのに、一生会えなかった気がするよ」

 低く甘い声。

「そう」

 彼は私の首筋に口づける。

「クラウディアの子は、俺が面倒を見ることにした。マルコの遺児として、相応の地位を与えるべきだ。それが落ち着いたら、俺たちも子供を作ろう――」

「ええ」

 私の声は軽い。

 ロレンツォが一瞬、動きを止めた。「嬉しくないのか?」

「ただ、疲れているだけ」私は深く息を吸う。「明日の夜八時に、サプライズを用意したわ。あとで住所を送るから」

「サプライズ?」

 私は寝返りを打ち、彼に向かって微笑んでみせた。

「その時のお楽しみよ。時間通りに来てくれるわよね?」

 彼はいつだって、私の笑顔に弱かった。

「もちろん」彼は私の額にキスをする。「愛しているよ」

 私は瞳を閉じる。

 答えはしなかった。

 翌朝七時。ロレンツォはすでにキッチンに立っていた。

「おはよう、コルヴィーノ家の奥さん」

 彼は皿を手にダイニングに入ってくる。

 目玉焼き、ベーコン、焼きたてのトースト。そして、一輪の白い薔薇。

「七周年、おめでとう」

 私は立ち上がり、ロレンツォの背後に回ってネクタイを結んであげた。

「今夜の場所、あとで送るわね」

「どこの住所なんだ?」

「記念日を祝う場所よ」

 私は封蝋された小さなギフトボックスを取り出した。

「これは、今夜のイベントが終わってから開けて」

「どうして今じゃないんだ?」

「特別なプレゼントだからよ」私は彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。「約束して。今夜私と会って、すべてが終わった後に開けるって」

 私が「死んだ」後に開けさせるために。

 自分の裏切りが何を壊したのか、その目で見させるために。

 彼が自分の手で、二つの命を殺したのだと知らしめるために。

 残りの人生を、悔恨の海で溺れさせるために。

「分かった」ロレンツォは箱を受け取り、私の顔をじっと見た。「今日の君は、なんだかいつもと違うな」

「どこが?」

「上手く言えないが」彼は眉を寄せる。「ただ……何かが違う」

 私はふっと笑った。「記念日って、人を感傷的にするものだから」

 午前九時。ロレンツォが車のキーを手に取る。

 私は玄関まで見送りに出た。

 彼が振り返った瞬間、私は衝動的に彼に抱きついた。

 強く、強く。

 彼の体温を、匂いを、すべて記憶に焼き付けるように。

「どうした?」ロレンツォが優しく問う。

 私は腕を解き、彼を見上げた。

「生まれ変わったら、私だけを見てくれる人を見つけるわ」

 ロレンツォが虚を突かれたような顔をする。

 けれど私はすでに一歩下がり、彼に手を振っていた。

「行って。遅れるわよ」

 エンジンの音が遠ざかっていく。

 私はドアの前に立ち尽くし、車が角を曲がって見えなくなるまで見送った。

 これで、最後。

 正午十二時。スマホが震える。

 インスタグラムの通知。「クラウディア・コルヴィーノが新しい投稿をしました」

 開くべきではない。何が映っているかなど、分かりきっている。

 それでも、指は動いた。

 写真には、盛大なホームパーティーの様子が写っていた。

 クラウディアの実家の庭園。長いテーブルを大勢が囲んでいる。上座の隣にはロレンツォが座り、アレッサンドロの手を握って満面の笑みを浮かべていた。

 一枚目の写真には、こんなキャプションが添えられている。

「ついに子供たちの守護者を父さんに紹介できたわ。これで私たちの家族は完璧ね」

 コメント欄には祝福の言葉が溢れている。

 マリア「真の男とは、兄弟の遺産を守り抜く者のことよ。ようこそ、私たちの家族へ、ロレンツォ」

 クラウディアの姉「これこそが、コルヴィーノ家の妻のあるべき姿ね。一族に世継ぎをもたらすことこそが」

 私は画面をスクロールする。

 別の写真では、ロレンツォがクラウディアの父親の隣に立ち、アレッサンドロが彼の肩に手を回して、二人でウイスキーのグラスを掲げていた。

 クラウディアの従兄弟のコメントが目に刺さる。

「ロレンツォは約束してくれたよ。子供たちにコルヴィーノ家のすべてを与えると。ジョアンナが持っているものは、彼らも等しく手に入れるだろう。信義に厚い男だ」

 私はその一文を凝視した。

「ジョアンナが持っているものは、クラウディアも手に入れる」

 そうか。私は一度だって「特別」なんかじゃなかった。

 私はただ、代わりの利く存在だったのだ。

 彼が囁いた愛の言葉も、口づけも、誓いも――

 すべてが私の中で炸裂し、灰だけを残して消え失せた。

 誰もが知っていたのだ。

 私以外は。

 投稿時間は、今朝の十一時三十分。

 ロレンツォは別荘を出た後、オフィスへ向かったのではなかった。

 私たちの結婚記念日に、クラウディアの家族に会いに行っていたのだ。

 今朝、私が彼のために選んだスーツを着て、私が結んだネクタイを締めて――別の女と祝杯をあげるために。

 私の中で、何かがぷつりと切れた。

 もう、争う価値もない。

 私はロレンツォにメッセージを送る。

「今夜八時。ハドソン川、15番埠頭。クルーズ船ベラ号にて。待っているわ」

 そして、電源を切った。

 荷物をまとめる前、最後にもう一度だけ写真の中の彼を見た。

 彼は笑っていた。かつて私だけに向けられていたはずの、あの優しく親密な微笑みで。

「さようなら、ロレンツォ・コルヴィーノ」

 私は低く呟く。

「永遠に」

 夜八時ちょうど。クラウディアの実家の宴会場は、煌びやかな光に包まれていた。

 ロレンツォは長テーブルにつき、クラウディアの父アレッサンドロとグラスを傾けている。

「ロレンツォ、君は誠実な男だ」

 アレッサンドロがウイスキーを掲げた。「マルコが逝った後も、君はクラウディアと子供たちを見捨てなかった」

 ロレンツォは礼儀正しくグラスを合わせる。だが、その視線は壁の時計に釘付けだった――七時五十七分。

 あと三分。

 ジョアンナからの指定は八時。ここから埠頭までは車で三十分はかかる。

「ねえ、写真を撮りましょう!」クラウディアがロレンツォの腕に絡みつく。

 ロレンツォは合わせるように微笑んだが、目は腕時計を凝視していた――七時五十八分。

「すまない、もう行かないと――」ロレンツォが立ち上がる。

 その瞬間、ポケットの携帯が鳴った。

「ボス……ッ」

 秘書ヴィンセントの声が震えている。背後からはけたたましいサイレンの音が聞こえた。

「ベラ号が爆発しました。ハドソン川、15番埠頭です」

 カシャーン。

 ロレンツォの手からグラスが滑り落ち、床で粉々に砕け散った。

「……今、何と言った?」

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