第4章

 法律事務所を出て、すぐにタクシーを拾い、空港へ向かった。

 だが、運転手は人通りのない道で車を停めた。

「道が違う」

 嫌な予感がして、私はドアノブに手を伸ばした。

「空港は反対方向だわ」

 ドアを開けようとした瞬間、背後から何かが顔に押し当てられた。布だ。薬品の臭いが鼻をつく。

 私は必死に暴れ、布を押さえる手を引っ掻いたが、視界は急速に歪んでいった。世界が横倒しになる。

 そして、すべてが闇に沈んだ。

 目が覚めると、手首と足首に激痛が走った。

 無理やり目を開ける。コンクリートの床、薄暗い照明、カビと何かが腐ったような臭い。どこかの廃倉庫だろうか。

 体を起こそうとしたが、手首を縛るロープが背後の鉄パイプに繋がれていることに気づいた。

「お目覚めか」

 声のする方へ顔を向ける。

 三メートルほど離れた場所に、デイジーが座り込んでいた。私と同じように縛られている。完璧だった髪は乱れ、マスカラが涙で頬に黒い筋を作っていた。

 なぜ彼女までここに?

 倉庫の向こう側で、ドアが勢いよく開いた。黒い覆面をした大柄な男が三人、入ってくる。一人は三脚付きのカメラを担ぎ、もう一人はスマートフォンを手にしている。

 三人目、明らかにリーダー格の男が、私たちの目の前にしゃがみ込んだ。

「あなた……人違いよ」デイジーの声が恐怖で裏返る。「私はギデオン・モレッティの女よ。私に指一本でも触れたら、彼があなたたちを潰すわ。彼が――」

「だからこそ、ここにいるんだ」男は笑い声を上げた。「それを期待してるんでね」

 私は努めて冷静さを保とうとした。「いくら欲しいの?」

 男が私の方を向く。「金? 金の問題だと思っているのか?」

「じゃあ何?」

「痛みだ」男は立ち上がった。「ギデオン・モレッティは俺の家族を破滅させた。俺たちのビジネスを焼き払い、弟を殺した。今度はあいつの番だ。大切なものを失う苦しみを味わわせてやる」

 デイジーが泣き崩れた。「お願い……お願いよ、私は何も知らないの。その場にすらいなかったわ。ただ私を解放して、そうすれば――」

「黙れ!」男の怒号が彼女の懇願を切り裂いた。「何が起きるか、すぐに見せてやる」

 リーダーがスマホを持った男に顎で合図を送った。

 ビデオ通話が繋がり、画面いっぱいにギデオンの顔が映し出される。

 彼の瞳には焦燥の色が浮かび、顎に力が入っているのが見て取れた。

「イザベラ? デイジー?」彼の声が震えた。「どこにいる? 怪我はないか?」

 リーダーがカメラの前に立った。「よく聞け、モレッティ。選択肢を一つやる。たった一つだ」

「何が望みだ? 何でもやる――」

「どちらか一人だけ助けられる」男の声は平坦だった。「妻のイザベラか。それとも初恋の相手、デイジーか。一人は生き残り、もう一人は檻の中で生きたまま焼かれる。決断する時間は三十秒だ」

 倉庫の中は、デイジーの啜り泣く声以外、静まり返った。

 私はカメラを見つめた。画面の向こうの、ギデオンの顔を。

 これで、彼は私が本当は何者なのかを知ることになる。

「そんな……」ギデオンの声が途切れる。「不公平だ。そんなこと選べるわけがない――」

「残り二十秒」

「ギデオン!」デイジーが叫んだ。「ギデオン、お願い! 助けて! 死にたくない! お願い!」

 彼女は半狂乱になり、ロープを引きちぎらんばかりに暴れ、全身を震わせて泣き叫んでいる。

 私は何も言わなかった。ただ画面を、彼を見つめ続けた。

「残り十秒」

 ギデオンは目を閉じた。深く息を吸い込む。

 再び目を開けた時、彼の声は囁くように小さかった。

「……デイジーを、解放してくれ」

 苦々しい笑みが唇に浮かぶのを感じた。ああ、やっぱり。やっぱり彼は、彼女を選んだのね。

「賢明な選択だ」リーダーが言い、通話を切った。

 二人の男がデイジーを掴み、ロープを解き始めた。彼女はまだ泣いていたけれど、どこか笑っているようにも見えた。

 そして、彼女は連れ去られた。

 リーダーが私に歩み寄る。「悪く思うなよ、モレッティの奥さん」

「ええ、わかってるわ」私は静かに答えた。

 彼らは私を倉庫の奥へと引きずっていった。隅には大きな金属製の檻が置かれている。

 私は中に乱暴に押し込まれ、重い鎖で扉をロックされた。

 そして、彼らはガソリンを撒き始めた。

 一人がライターを取り出す。

「言い残すことは?」リーダーが尋ねた。

 少し考えて、私は首を横に振った。ギデオンのこと。失った赤ちゃんのこと。五年間の血と犠牲と愛、結局は何の意味もなかったそれらのことについて。

 カチッという音と共に、ライターの火が灯る。

 炎は瞬く間に燃え広がった。ガソリンの軌跡を走り抜け、数秒で檻を取り囲む。熱気が壁のように私を襲った。

 男たちが逃げ去る足音が聞こえる。倉庫のドアが閉まる音。

 あとには私と、炎だけが残された。

 私は檻の床に崩れ落ち、手で口と鼻を覆って煙を防ごうとした。だが、煙の量はあまりに多い。呼吸をするたびに肺が焼けるようだ。

 視界が霞み始めた。

 父のことを思い出し、言うことを聞かなかったことを後悔した。私が死んだと知ったら、父はどれほど悲しむだろう。

 瞼が落ちる。世界が色褪せていく。

ギデオン視点

 ギデオンの手は震えていた。車に乗り込むデイジーを支える手も、まだ止まらない。

 彼女はシートに倒れ込み、まだ小刻みに震えている。部下たちが銃を構え、車両を取り囲んだ。

「もう大丈夫だ」彼は彼女に告げた。「君は安全だ」

 だが、彼の心はすでに別の場所にあった。イザベラのことだ。

 彼は携帯を掴み、右腕である部下に電話をかけた。「場所は特定できたか? イザベラの救出に向かっているのか?」

 電話の向こうの沈黙が、彼の血液を凍りつかせた。

「ボス、それは――」

「何だ!?」

「ボス……」長い沈黙があった。「モレッティの奥様は……火災で亡くなりました。我々が到着した時には、倉庫はすでに焼け落ちていました」

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