第1章

 顎からこぼれた涙が、大理石の床にぽとり、ぽとりと落ちていく。

 私はダイニングテーブルの下でうずくまり、落としてしまったスプーンを握り締める指先が、真っ白になるほど力を込めていた。

 全身が釘で打ちつけられたみたいに動けない。

 過去が、波のように押し寄せてくる。

 ――私が行方不明になったあの日、母はひとりで車を運転して、山へ私を探しに行った。

 その車は、崖から滑り落ちた。

 母は、その場で死んだ。

 それからずっと、父のマリオから向けられる視線は、刃物みたいに痛かった。

「母さんは、お前のせいで死んだんだ」

 兄のロレンツォは、私が描いた母の絵をビリビリに破り捨て、床に叩きつけて靴で踏みつけながら、怒鳴りつけた。

 二人は、カミラへのえこひいきを一度だって隠そうとしなかった。

 彼女は私より三つ年上で、父の愛人との子どもだった。

 彼女の誕生日になると、父はいつもデザイナーを呼んで、屋敷じゅうを豪華絢爛に飾り立てた。

 庭にはシャンパンタワーがずらりと並び、打ち上げられる花火まで特注品だった。

 私が喀血して入院したとき、見舞いに来た人間はひとりもいなかった。

 けれどカミラが、ほんの少し咳き込んだだけで、父も兄も交代で彼女のベッドのそばに付きっきりで看病した。

 それでも私は、二人を恨まなかった。

 本気で、自分は愛されるに値しない人間だと思っていたから。

 私が、母を殺した。

 無視されて当然だって、そう思い込んでいた。

 ――ヴィクターと出会うまでは。

 母の命日の日、カミラは私を地下の貯水室に閉じ込めた。こうしておけば、自分が母を殺したという事実を忘れないで済むから、と言って。

 冷たい水に腰まで浸かりながら、私は七時間もそこで座り続けた。身体はガタガタ震え、呼吸すらまともにできなかった。

 このままここで死ぬんだ――そう覚悟しかけたその瞬間。

 扉が勢いよく蹴破られた。

 眩しいライトの中に、ヴィクター・モレッティが立っていた。彼の背後では、屋敷の警備たちが、床に転がったまま意識を失っている。

 彼は手を差し出して言った。

「怖くない、大丈夫だ。俺がいる」

 その瞬間、真っ暗だった私の世界に、ぱっと光が差し込んだ。

 裏社会で最も危険と恐れられる男が、いちばん優しい手つきで、私を闇の底から引き上げてくれたのだ。

 彼は私の背中をそっと叩き、低い声で囁いた。

「もう安全だ」

 生まれて初めて、「守られている」と感じた瞬間だった。

 あのとき私は、本気で彼が救いだと信じた。

 やっと、愛というものを見つけたのだと。

 だから彼にプロポーズされたとき、少しの迷いもなく頷いた。

 ……今日になるまで気づかなかった。あれが、精巧に作られた別の牢獄にすぎなかったなんて。

 三年前、カミラは珍しい血液の病気だと診断された。

 家族の中で、その極めて稀で、ほとんど絶滅しかけている血液型を持っているのは、私とカミラだけだった。

 かかりつけの医師は言った。彼女には頻繁な輸血が必要で、命を狙う者からも守り続けなければならない――そして私こそが、理想的な「盾」であり「血の供給源」だと。

 だからこそ、ヴィクターは私と結婚した。

 愛なんかじゃない。私の血のためだけに。

 しばらくして、彼は突然「子どもを作ろう」と言ってくれた。

 私は愚かにも、それを彼がやっと家族になろうとしてくれた証だと受け取った。

 けれど、結局はすべてカミラのためだったのだ。

 立ち上がろうとした――けれど、間に合わない。

 カミラがダイニングに入ってきた。

 尖った、気まぐれな声が耳を刺す。

「お母さん、そうよ、ヴィクターなんかいくらでも騙せるわ。心臓病? あたし、どこも悪くないって」

「彼が子どもの頃、彼のために弾を一発受けたって? あれ、本当はエレナが庇っただけ。ま、彼がそれを知ることは一生ないけど」

「赤ん坊が生まれたら、臍帯血さえ手に入れば、あの子は『行方不明』になるでしょうね」

 私は咄嗟に口を押さえた。

 じゃあ……ヴィクターは最初から、ずっと人違いをしていたのだ。

 彼は彼女のために、何度も何度も私を傷つけてきた。

 それでも、最後まで知らないまま――

 彼の命を救ったのが誰なのか。彼が本当に愛している相手が誰なのか――

 それが、私だということを。

 震える両手で、スマホの録音ボタンを押す。

 カミラが出て行ったあと、私はふらつく足取りでバスルームに入り、鍵をかけた。

 そして、ゾーイに電話をかける。唯一信じられる友達であり、医師でもある女性。

「妊娠を……終わらせたいの」

 受話器の向こうで、ゾーイの声が鋭く跳ね上がる。

「ちょっと、正気なの?! この妊娠のために、あんたがどれだけ苦しんできたか自分でわかってるでしょ? あの注射、あの出血。ヴィクターだって、やっとあんたとの子どもを認めてくれたのに、あのときあんなに喜んで――エレナ、何があったの?」

 彼女は、私がどれほどヴィクターの子どもを望んでいたかを知っている。

 そして、あの人が承諾してくれた瞬間、どれほど私が幸せだったかも。

 ゾーイは、私を落ち着かせようと必死に言葉を選んだ。

「二人、喧嘩でもしたの? 感情的になってるときに、そんな決断しちゃダメ。深呼吸して。もう一回、よく考え直してみて」

 それでも、私は引き下がらなかった。

 彼女は長く息を吐き、震える声で言う。

「……わかった。もし明日の朝になっても、まだそうしたいって思ってるなら、うちに来て。全部、段取りするから」

 通話が切れたあと、ドアがノックされた。

「エレナ?」 

 ヴィクターがドアを押し開け、私の姿を見つけるなり、ほっと肩の力を抜く。

「探したぞ」

 私を救ってくれた、あの夜と同じ眼差し。柔らかくて、気遣いに満ちていて、慈しみすら湛えた瞳。

 胸の奥が、ぎゅっと縮む。

 同じ人間に、何年も何年も騙され続けることは、本当にあり得るのだ。

「……あなたは、私のこと、気にしてくれてるの?」

 堪えきれずに問いかける。

「お前は俺の妻だ」 

 彼は私の手を取り、落ち着いた低い声で続ける。

「それに、お前は俺の子どもを身籠っている。心配するに決まっているだろう」

 あまりにも優しい声色に、ほんの一瞬だけ、すべてが誤解だったのかもしれないと信じかける。

 そのとき、彼のスマホが鳴った。

 画面に表示された名前――カミラ。

 彼は眉をひそめて一瞬だけ視線を落とし、そのまますぐ私のほうへ向き直る。

「悪い。急ぎの用だ」

 廊下を歩き去っていく背中を見送りながら、一歩、また一歩と遠ざかるたびに、私の心はじわじわと冷えていった。

 胸のどこかが、どうしても聞け、と叫んでいる。

「ヴィクター……あなたは、私と、この子を愛してるの?」

 彼は考える間もなく、当たり前のことのように言った。

「もちろんだ。この子さえ無事に生まれてくれれば、それでいい。エレナ、お前の唯一の役目は、子どもを健康なまま産むことだ」

 そう言い残して、彼は去っていった。

 私はその場に立ち尽くした。胸の真ん中を何か硬いもので殴りつけられたように、呼吸が乱れる。

 ――彼は、私を愛していない。

 この子のことも、愛してなどいない。

 彼が欲しいのは、ただ生まれてくる子どもの臍帯血だけ。

 ポケットの中でスマホが光る。

 ゾーイから、赤ちゃんのエコー写真が届いていた。

 画面を開く。

 白と黒が混ざった画像の中、小さな豆粒のような影が、静かに横たわっている。微かで、頼りないのに、それでも必死に打ち続ける鼓動。

 視界がまた、涙で滲んだ。

 何も知らないくせに、この子は懸命に、私の中で生きようとしている。

「ごめんね……」

 言葉にならない嗚咽が漏れる。

 ――私は、この命を終わらせることなんてできない。

 けれど、この子を道具にはさせない。

 ヴィクターのもとを離れる。

 この、私を縛りつけ、傷つけ、嘘で塗り固められた場所から逃げ出す。

 二度と、振り返ったりなんかしない。

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