紹介
私はテーブルの下にしゃがみ込み、落としたスプーンを握りしめる指は白く変色していた。
全身が金縛りにあったように動けなかった。
過去の記憶が津波のように押し寄せてくる。
私が失踪したあの日、母は一人で車を運転し、山へ私を探しに行った。
母の車は崖から転落した。
母は即死だった。
それ以来、父マリオが私を見る目は、まるで刃物のように冷たかった。
「母さんはお前のせいで死んだんだ」兄ロレンツォは私が描いた母の肖像画を引き裂き、その上を踏みつけながら私に向かって叫んだ。
彼らはカミラへの偏愛を隠そうともしなかった。
彼女は私より三歳年上で、父の隠し子だった。
彼女の誕生日には毎年、父はデザイナーを雇い、屋敷全体を豪華絢爛に飾り立てた。
庭にはシャンパンタワーが並び、花火まで特注品だった。
私が喀血して入院したとき、誰も見舞いに来なかった。
カミラが軽く咳をしただけで、父と兄は交代で彼女のベッドサイドに付き添った。
それでも私は、彼らを責めたことは一度もなかった。
本当に、自分は愛される価値がないと思っていたから。
チャプター 1
顎からこぼれた涙が、大理石の床にぽとり、ぽとりと落ちていく。
私はダイニングテーブルの下でうずくまり、落としてしまったスプーンを握り締める指先が、真っ白になるほど力を込めていた。
全身が釘で打ちつけられたみたいに動けない。
過去が、波のように押し寄せてくる。
――私が行方不明になったあの日、母はひとりで車を運転して、山へ私を探しに行った。
その車は、崖から滑り落ちた。
母は、その場で死んだ。
それからずっと、父のマリオから向けられる視線は、刃物みたいに痛かった。
「母さんは、お前のせいで死んだんだ」
兄のロレンツォは、私が描いた母の絵をビリビリに破り捨て、床に叩きつけて靴で踏みつけながら、怒鳴りつけた。
二人は、カミラへのえこひいきを一度だって隠そうとしなかった。
彼女は私より三つ年上で、父の愛人との子どもだった。
彼女の誕生日になると、父はいつもデザイナーを呼んで、屋敷じゅうを豪華絢爛に飾り立てた。
庭にはシャンパンタワーがずらりと並び、打ち上げられる花火まで特注品だった。
私が喀血して入院したとき、見舞いに来た人間はひとりもいなかった。
けれどカミラが、ほんの少し咳き込んだだけで、父も兄も交代で彼女のベッドのそばに付きっきりで看病した。
それでも私は、二人を恨まなかった。
本気で、自分は愛されるに値しない人間だと思っていたから。
私が、母を殺した。
無視されて当然だって、そう思い込んでいた。
――ヴィクターと出会うまでは。
母の命日の日、カミラは私を地下の貯水室に閉じ込めた。こうしておけば、自分が母を殺したという事実を忘れないで済むから、と言って。
冷たい水に腰まで浸かりながら、私は七時間もそこで座り続けた。身体はガタガタ震え、呼吸すらまともにできなかった。
このままここで死ぬんだ――そう覚悟しかけたその瞬間。
扉が勢いよく蹴破られた。
眩しいライトの中に、ヴィクター・モレッティが立っていた。彼の背後では、屋敷の警備たちが、床に転がったまま意識を失っている。
彼は手を差し出して言った。
「怖くない、大丈夫だ。俺がいる」
その瞬間、真っ暗だった私の世界に、ぱっと光が差し込んだ。
裏社会で最も危険と恐れられる男が、いちばん優しい手つきで、私を闇の底から引き上げてくれたのだ。
彼は私の背中をそっと叩き、低い声で囁いた。
「もう安全だ」
生まれて初めて、「守られている」と感じた瞬間だった。
あのとき私は、本気で彼が救いだと信じた。
やっと、愛というものを見つけたのだと。
だから彼にプロポーズされたとき、少しの迷いもなく頷いた。
……今日になるまで気づかなかった。あれが、精巧に作られた別の牢獄にすぎなかったなんて。
三年前、カミラは珍しい血液の病気だと診断された。
家族の中で、その極めて稀で、ほとんど絶滅しかけている血液型を持っているのは、私とカミラだけだった。
かかりつけの医師は言った。彼女には頻繁な輸血が必要で、命を狙う者からも守り続けなければならない――そして私こそが、理想的な「盾」であり「血の供給源」だと。
だからこそ、ヴィクターは私と結婚した。
愛なんかじゃない。私の血のためだけに。
しばらくして、彼は突然「子どもを作ろう」と言ってくれた。
私は愚かにも、それを彼がやっと家族になろうとしてくれた証だと受け取った。
けれど、結局はすべてカミラのためだったのだ。
立ち上がろうとした――けれど、間に合わない。
カミラがダイニングに入ってきた。
尖った、気まぐれな声が耳を刺す。
「お母さん、そうよ、ヴィクターなんかいくらでも騙せるわ。心臓病? あたし、どこも悪くないって」
「彼が子どもの頃、彼のために弾を一発受けたって? あれ、本当はエレナが庇っただけ。ま、彼がそれを知ることは一生ないけど」
「赤ん坊が生まれたら、臍帯血さえ手に入れば、あの子は『行方不明』になるでしょうね」
私は咄嗟に口を押さえた。
じゃあ……ヴィクターは最初から、ずっと人違いをしていたのだ。
彼は彼女のために、何度も何度も私を傷つけてきた。
それでも、最後まで知らないまま――
彼の命を救ったのが誰なのか。彼が本当に愛している相手が誰なのか――
それが、私だということを。
震える両手で、スマホの録音ボタンを押す。
カミラが出て行ったあと、私はふらつく足取りでバスルームに入り、鍵をかけた。
そして、ゾーイに電話をかける。唯一信じられる友達であり、医師でもある女性。
「妊娠を……終わらせたいの」
受話器の向こうで、ゾーイの声が鋭く跳ね上がる。
「ちょっと、正気なの?! この妊娠のために、あんたがどれだけ苦しんできたか自分でわかってるでしょ? あの注射、あの出血。ヴィクターだって、やっとあんたとの子どもを認めてくれたのに、あのときあんなに喜んで――エレナ、何があったの?」
彼女は、私がどれほどヴィクターの子どもを望んでいたかを知っている。
そして、あの人が承諾してくれた瞬間、どれほど私が幸せだったかも。
ゾーイは、私を落ち着かせようと必死に言葉を選んだ。
「二人、喧嘩でもしたの? 感情的になってるときに、そんな決断しちゃダメ。深呼吸して。もう一回、よく考え直してみて」
それでも、私は引き下がらなかった。
彼女は長く息を吐き、震える声で言う。
「……わかった。もし明日の朝になっても、まだそうしたいって思ってるなら、うちに来て。全部、段取りするから」
通話が切れたあと、ドアがノックされた。
「エレナ?」
ヴィクターがドアを押し開け、私の姿を見つけるなり、ほっと肩の力を抜く。
「探したぞ」
私を救ってくれた、あの夜と同じ眼差し。柔らかくて、気遣いに満ちていて、慈しみすら湛えた瞳。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
同じ人間に、何年も何年も騙され続けることは、本当にあり得るのだ。
「……あなたは、私のこと、気にしてくれてるの?」
堪えきれずに問いかける。
「お前は俺の妻だ」
彼は私の手を取り、落ち着いた低い声で続ける。
「それに、お前は俺の子どもを身籠っている。心配するに決まっているだろう」
あまりにも優しい声色に、ほんの一瞬だけ、すべてが誤解だったのかもしれないと信じかける。
そのとき、彼のスマホが鳴った。
画面に表示された名前――カミラ。
彼は眉をひそめて一瞬だけ視線を落とし、そのまますぐ私のほうへ向き直る。
「悪い。急ぎの用だ」
廊下を歩き去っていく背中を見送りながら、一歩、また一歩と遠ざかるたびに、私の心はじわじわと冷えていった。
胸のどこかが、どうしても聞け、と叫んでいる。
「ヴィクター……あなたは、私と、この子を愛してるの?」
彼は考える間もなく、当たり前のことのように言った。
「もちろんだ。この子さえ無事に生まれてくれれば、それでいい。エレナ、お前の唯一の役目は、子どもを健康なまま産むことだ」
そう言い残して、彼は去っていった。
私はその場に立ち尽くした。胸の真ん中を何か硬いもので殴りつけられたように、呼吸が乱れる。
――彼は、私を愛していない。
この子のことも、愛してなどいない。
彼が欲しいのは、ただ生まれてくる子どもの臍帯血だけ。
ポケットの中でスマホが光る。
ゾーイから、赤ちゃんのエコー写真が届いていた。
画面を開く。
白と黒が混ざった画像の中、小さな豆粒のような影が、静かに横たわっている。微かで、頼りないのに、それでも必死に打ち続ける鼓動。
視界がまた、涙で滲んだ。
何も知らないくせに、この子は懸命に、私の中で生きようとしている。
「ごめんね……」
言葉にならない嗚咽が漏れる。
――私は、この命を終わらせることなんてできない。
けれど、この子を道具にはさせない。
ヴィクターのもとを離れる。
この、私を縛りつけ、傷つけ、嘘で塗り固められた場所から逃げ出す。
二度と、振り返ったりなんかしない。
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もう二度と、過去には戻らない。
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イーサンが彼女を取り戻そうとしたとき、こう言った。「俺たちの子どもを、父親なしで育てたいのか」
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