第2章

 あの夜、私はほとんど眠れなかった。ヴィクターはとうとう帰ってこなかった。

 スマホの画面を何時間も見つめ続けて、その末にようやく、これまで一度もかける勇気が出なかった番号を押した。

 コールが繋がる。

 懐かしい、かすれた声が応えた。

「エレナ」

 堰を切ったみたいに、涙が溢れ出した。

「おじいちゃん……私、お母さんの遺産、まだ受け取れる……?」

 電話の向こうで、少しの沈黙。

「お母さんの遺産は、最初からお前のものだよ」彼は言った。「あとは全部、じいちゃんに任せなさい」

 握りしめた指先に、スマホが食い込んで白くなっていく。

 本当は、ずっと前から知っていた。自分に遺産が残されているってことくらい。

 でも私は、どうしても受け取る気にはなれなかった。

 だって、ずっとそう思っていたからだ――母は私のせいで死んだ。だから私は、母が残してくれたものを一つだってもらう資格なんてない。

 母の愛を受け取る資格なんて、ない。

 震える呼吸を無理やり吸い込む。

「おじいちゃん……お願い。絶対に、お父さんとお兄ちゃんと、ヴィクターに私を見つけさせないで。ずっとだよ」

 彼の声色がきゅっと引き締まる。

「わかった。三日後の便を手配してやろう」

 三日。

 あと三日で、私は自由になれる。

 翌朝、階段を下りていくと、リビングに父のマリオと兄のロレンツォ、それからヴィクターが――

 三人並んでソファに腰かけ、その真ん中でカミラを囲んでいた。

「もう少し生姜湯飲めよ。昨夜、胸が痛いって言ってたろ」ロレンツォが柔らかい声で彼女をあやす。

 父は眉を寄せ、声に不安を滲ませていた。

「顔色がまだ真っ青じゃないか。医者にもう一度電話したほうがいいんじゃないか?」

 ヴィクターは彼女の隣に座り、膝掛けを整え、錠剤を手渡し、呼吸の仕方までそっと導いてやっている。

 まるで、どこから見ても完璧で、親密で、愛情に満ちた家族。

 私は、捨てられた影みたいに階段の下に立ち尽くしていた。

 胸の奥がぎゅうっと痛む。

 膝を擦りむいて、手のひらから血を流して、泣きながらお父さんに抱きつこうと両腕を伸ばした――けれどお父さんは私の手を払いのけて、「大げさなんだよ」と言った。

 でも、カミラが少し鼻をすすっただけで、彼はすぐさま彼女を抱き上げて、おでこにキスして、ガラス細工を扱うみたいに大事そうに抱きしめる。

 私はいつだって、愛される価値のない子どもだった。

 だからこそ、ヴィクターが向けてくれた、ひとつひとつの優しさがたまらなく愛おしかった。

 私は信じていた。彼こそが私の救いで、この先の人生で唯一頼れる存在なんだと。

 けれど――あんなふうに彼がカミラを見つめる姿を見てしまったら。

 こんなに穏やかで、優しい目をして、彼女のために水を持っていき、薬を飲ませ、笑わせようと必死になっているのを見てしまったら。

 私はようやく悟った。最初から、私のほうがずっと勘違いしていたのだと。

 彼のその真っ直ぐな優しさは、もともと私に向けられたものなんかじゃなかった。

 ヴィクターが顔を上げ、私を見つける。

「エレナ、起きたのか」

 何かを思い出したように、彼は言葉を継いだ。

「悪い。今日は君を健診に連れて行けない。カミラの体調が悪くて――そばにいてやらないと」

 カミラが私のほうへ歩み寄ってくる。

「エレナ、怒ってない? 妊娠すると感情が不安定になるってわかってるから……」

 指先が、ぐさりと私の二の腕に突き刺さった。

 唇の動きだけでやっと聞き取れるほどの、小さな声。

「たとえあなたが彼の子を妊娠していたって、だから何? あなたが一番には、絶対なれない」

 次の瞬間、彼女は私の腕をぱっと放して、そのまま後ろへ倒れ込んだ。

 床に倒れつける音が、リビングの空気を弾けさせる。

「カミラ!」

 ロレンツォが彼女めがけて飛び込んだ。

 父の怒鳴り声が響く。

「エレナ! どうして彼女を突き飛ばした!」

「私は触ってない」私はそう言った。

 けれど、誰一人として耳を貸そうとはしなかった。

 ヴィクターがカミラのそばに駆け寄り、世界で一番大切なものを守るみたいに、彼女を腕の中に抱きしめる。

「エレナ」彼が顔を上げて私を見る。その瞳には、深い失望の色が浮かんでいた。「いつから、そんな意地の悪い人間になったんだ?」

 意地悪。

 その言葉を、父と兄からどれだけ浴びせられてきたか知れない。

 ――それでも、ヴィクターの口から聞かされると。

 鋭い刃物が、心臓にそのまま突き刺さったみたいだった。

「押してなんかない……本当に……」自分でも何を口走っているのかわからないまま、私は呟いていた。

 だがヴィクターの声は、氷のように冷たくなる。

「彼女を地下室へ連れていけ。一晩、そこで頭を冷やさせろ」

 地下室は、底冷えするほど寒くて、じめっと湿っていて、息が詰まりそうな場所――私の人生そのものを形にしたみたいな、暗がり。

 コンクリートの床に座り込み、私は自分のお腹を両腕でぎゅっと抱きしめた。

 お腹の中の赤ちゃんが、かすかに身じろぎする。

 外から、足音が聞こえてきた。

 ヴィクターだ。

 ドアのところに立ち、見下ろすその姿は、施しでも与えにきたような顔をしていた。

「カミラはすっかり怯えてる。明日ちゃんと謝るって約束するなら、ここから出してやる」

 私は顔を上げる。

「どうして、やってもいないことに謝らなきゃいけないの?」

 彼は眉根を寄せ、常識が通じない相手を前にした人間だけが浮かべる、あの信じられないという色を瞳に宿した。

「エレナ、君は妊娠してるんだ。情緒が不安定になるのはわかる。でもそれは、その苛立ちをカミラにぶつけていい理由にはならない」

 苛立ちをぶつける、だって?

 いじめられて、陥れられて、搾り取られて、何もかも奪われているのは、こっちのほうなのに。

 それでも彼は、最後まで彼女の味方だ。

 彼は小さなボトルを差し出した。

「これは鉄剤の高用量タイプだ。君はずっと貧血気味だっただろ。赤ちゃんのためにも、ちゃんと飲まないと」

 私はボトルを手に取る。その冷たさが指先からじわじわと痺れみたいに広がっていく。

 こんなサプリが、自分には合っていないことくらい、とうにわかっていた。

 これは、私の血を増やすためのもの。

 だから――カミラが「治療」を受けるたびに、私は、骨の髄まで絞られたみたいに、立っているのもやっとになるのだ。

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