第3章

 冷えきった地下室の床の上で、一晩中うずくまっていた。

 全身が痛む。頭の中もぐちゃぐちゃだった。

 それでも、無理やり意識を繋ぎとめる。――もうすぐ、全部終わる。

 三日後には、ここを永遠に出ていく。

 二日目の朝、ギィ、と音を立てて地下室の扉が開いた。

 カミラが、リボンのついた箱を提げて入ってくる。

 その後ろに、ヴィクターが続いた。

 カミラはやわらかく微笑んだ。「エレナ。妊娠中って、ホルモンのせいで気持ちが不安定になるでしょう? 昨日のことは気にしてないわ。このマタニティドレスは、あなたのために私が一針一針縫ったの。許してもらえたら嬉しいんだけど」

 私は反射的に首を振った。「結構よ、カミラ」

 彼女はヴィクターのほうへ顔を向け、たちまち目に涙を溜める。「ヴィクター、私はただ、エレナと仲直りがしたいだけなのに……」

 ヴィクターの顎がぴんと張りつめる。わずかな責めを含んだ視線が、私に向けられた。「エレナ。カミラは善意でしているんだ。受け取ってやってくれ」

 揺るがないその表情を、私は見つめ返す。

 ……そうね。どうせ、もうすぐ出て行く。今さら言い合いをしたところで、何の意味があるっていうの。

「……わかりました」冷えた声が、自分の口からこぼれた。

「今、試しに着てみてくれない? ちゃんとサイズが合ってるか確認したいの」

 カミラの笑みは、目の奥までは届いていない。

 箱を抱えるその手つきに、私の中で警報が一斉に鳴り響く。

 私はちらりとヴィクターを見た。どうか、どこかおかしいと気づいて――そう祈りながら。

 けれど、彼のポケットの中で携帯が鳴った。

 画面を一瞥したあと、迷いもなく私のほうへ向き直る。「二人で話しててくれ。すぐ戻る」

 背後で扉が閉まる。

 鍵がかちゃり、と外れたその瞬間。カミラの「優しい仮面」が音を立てて崩れ落ちた。

 私が数歩さがるより早く、彼女は飛びかかってきて、乱暴に私の身体を壁へ叩きつける。

 カミラは箱の蓋を乱暴に開けた。

 中に入っていたのは一着のローブ。裏地には、何十本もの細いスチールの針が縫い込まれている。繊細なレースの下に隠された鋭い先端が、薄暗い灯りの中できらりと光った。

「着なさい」命令するような声。彼女は私のシャツを乱暴に剝ぎ取り、そのローブを無理やり頭から被せてきた。

 針の先が、次々と肌を突き刺す。

 唇を思い切り噛みしめる。血の味が広がる。両腕は本能的にお腹を抱きしめていた。お腹の子だけは、なんとしても守らなければ。

 カミラが私の肩をぐっと押さえつける。そのたび、針が肉に食い込む感覚が深くなる。

 抑え込んでいた悲鳴が、喉の奥からこぼれた。止めるより先に、声が漏れた。

「ヴィクターがあなたと結婚した?」カミラは笑う。「私が、自分専用の血袋を必要としてたからよ」

「最初、彼はあなたとの子どもなんて作る気なかったの。お医者さんがね、私には臍帯血が必要だって告げたの。それで、彼は考えを変えた」

「自分が特別だとでも思ってるの? 違うわよ。あなたはただの道具よ、エレナ」

 涙が頬を伝って落ちる。「あなたは一体、私から何を得ようとしているの?」

 彼女はぐっと顔を寄せてきた。熱い吐息が耳にかかる。

「まだひとつ、教えてなかったことがあるの」

「あなたのお母さんの交通事故。あれは事故なんかじゃない。私が自分の手で、ブレーキケーブルを切ったのよ」

 身体が石みたいに固まった。

 ――いや。

 その言葉が頭の中で何度も何度も叫ばれるのに、声にならない。

 何年ものあいだ、私は重たい鎖を引きずるように、罪悪感を抱えて生きてきた。

 マリオの冷たい視線。ロレンツォの嫌悪。

 母の死は自分のせいだと思っていた。

 冷たい眼差しも、吐き捨てられる言葉も、無視される時間も――全部「当然の報い」だと、そう信じ込もうとしていた。

 でも、本当は一度だって、私のせいなんかじゃなかった。

 震える手のひらで床を支える。悲しみと怒り、そして言葉にできないほど強い感情が渦を巻き、全身を震わせる。

「……どうして」やっとの思いで問いかける。

「私はあの女が大嫌いだったの」カミラの声に、どろどろとした怨嗟が混ざる。「あの女は気づいたのよ。私がマリオの実の娘じゃないって。全部暴いて、家から叩き出すつもりだった。だから先に殺したの」

「それに、あなた。かつては誰からも可愛がられて、家の『本物の娘』だったあなたのことは――もっと憎んでいた。だから、あなたの持っているものは、全部壊してやることにしたのよ」

「あ……あなた、私がヴィクターに言うのが怖くないの?お父さんに言うのが怖くないの?」声がひび割れ、ほとんど嗚咽と区別がつかない。

 カミラはのけぞるように笑った。その笑いは歪みきっていて、人間のものとは思えなかった。

「言えばいいわ!彼らに話しなさいよ!誰を信じると思って?」

 たしかに――父や兄に訴えたところで、彼らが私の言葉を信じるかどうかは、あまりにも怪しい。

 カミラはポケットに手を入れ、小さな袋を取り出した。中身は粗塩だ。

 そして、私の身体中の針傷一つ残らずに、その塩をぎゅうっと塗り込んでいった。

 息が止まるほどの痛み。

 気を失いそうになる。それでも、私は必死にお腹を抱きしめて、腕を離さなかった。

 カミラは、そんな私を満足そうに眺める。

 次の瞬間。彼女は唐突に手を振り上げ、自分の頬を全力で打った。

 ぱん、と乾いた音が地下室に響いた。

 震える息を吸い込み、毒々しい満足を宿した目で私を見据えると――甲高い声で叫んだ。

「ヴィクター! 助けて!」

 廊下から、慌ただしい足音が近づいてくる。扉が勢いよく開いた。

 ヴィクターが飛び込んできた。

 私は壁にもたれ崩れ落ち、震えながら座り込んでいる。服は引き裂かれ、ボロボロだ。カミラは頬を押さえ、赤く腫れたその頬を涙で濡らしながら立っていた。

「ただ……ただ、エレナにあのドレスを試着してもらいたかっただけなの」カミラはしゃくりあげながら言う。「たぶん、気に入ってもらえなかったんだと思う……ごめんなさい……」

 ヴィクターは、私のほうを一瞥すらしない。

 一直線にカミラのもとへ駆け寄ると、その身体を強く抱きしめた。「怪我はないか」

 その声に宿る優しさ――一度だって、私に向けられたことのないあたたかさが、針よりも鋭く胸に突き刺さる。

 視界が涙で霞んだ。

 この人は、私のことを気にかけたことなんて一度もなかった。初めから、ずっと。どうして、それに気づこうとしなかったんだろう。どうして、そんな人を好きになってしまったんだろう。私を空気みたいに扱う人を。

 やがてヴィクターがこちらを振り向く。その瞳は、凍てつくように冷たかった。

「エレナ。お前はやりすぎだ」

 彼はカミラを抱き上げると、そのまま出て行ってしまう。暗闇に、私ひとりを置き去りにして。

 私は冷たい床の上に座り込み、腕でお腹を抱きしめたまま、二人が消えていった扉の向こうの空虚をじっと見つめていた。

 翌朝、メイドが扉を開ける。

 私は何も言わず、部屋へ戻った。

 そして、荷造りを始める。

 一枚一枚の書類。母の写っている写真。こっそり録音してきた証拠のデータ。

 全部、スーツケースの中へ詰め込んでいった。

 鏡の前に立つ。

 肌は無数の針痕と青あざで覆われている。

 目は落ち窪み、頬はこけていた。

 まるで死人のような顔。

「行かなくちゃ」鏡の中の自分に、かすれ声で囁く。

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