第1章
「……本当に、するの?」
N市屈指の高級ホテル。最上階のスイートで、男は金縁の眼鏡を外した。彫刻みたいに深い輪郭――獲物を射抜くような、あまりにも攻撃的な顔。
渡辺瑚夏は目尻を赤く染め、つま先立ちになる。男のシャツの襟を引き寄せ、赤い唇で喉仏に噛みついた。
するに決まってる。
媚薬を盛られた身体が熱くてたまらない。今すぐ乱暴に引き裂かれたい、そう思ってしまうほどに。
「……っ、」
びりっ。
布が裂ける音。胸元を冷たい空気が撫で、背中がベッドに触れた瞬間――男の熱い唇が胸に噛みついた。
「ん……」
瑚夏は背を反らし、もっと、と身体を押しつける。白い指先が男の下へ滑り込んで――。
――昨夜。
外出する瑚夏に、渡辺家がようやく取り戻した“本物の令嬢”渡辺芽衣が「ついでに乗せて」と言った。
そして目を覚ましたとき、瑚夏はホテルのベッドの上にいた。身体は異様に熱く、媚薬を盛られた兆候がはっきり出ている。
K市で悪名高い、最低最悪の二人組。
そいつらが目の前でズボンを下ろしはじめた。
瑚夏は二人の股間を、それぞれ一発ずつ蹴り上げた。
それから親友に電話して、解毒のためのホストを呼ばせた――こいつを。
男の大きな手が肌を這う。指が通ったところが、火種を落としたみたいに熱を残す。
瑚夏は彼にしがみつき、もっと、もっとと求めてしまう。
――翌朝。
スマホの電源を入れた瞬間、親友から電話が来た。
『昨夜のホスト、どうだった? 気持ちよかった?』
相変わらず口が悪い。
瑚夏は隣で眠る男を見下ろす。
「顔は悪くない。テクは普通。手はきれい……でも、ちょっと年いってる」
『20歳で“年いってる”って何それ!』
向こうの声はやけに楽しそうだった。
20歳?
瑚夏の視線が男の顎に落ちる。朝の薄い青髭が、妙に濃い。
20歳でこのヒゲ? 30歳級の勢いじゃない。
……でも、色気はある。
瑚夏は裸のまま、床に落ちていた白いものをひょいと拾い、男の目の上にかぶせた。素早く服を着て部屋を出る。
腰が痛い。脚がふらふら。
最近のホスト、働きすぎじゃない? やめてって言っても、何度も何度も必死に――。
「で、あの二人のクズはどうなった?」
『瑚夏ちゃん、昨日のキック、ちょい甘かったっぽい。あいつらの“モノ”、治せば使えるってさ』
薬が回り始めてたんだ。狙いが正確なほうがおかしい。
相手が別の女だったら、あの二人の性癖なら壊されて終わりだ。
「ホテルの痕跡、消した?」
『私の仕事、信用しないの?』
「切る」
電話を切った瑚夏の瞳は澄んでいるのに、どこか冷えていた。
瑚夏はずっと慎重だった。昨日も外出前に、五歳の姪が運んできたフルーツジュースを飲んだ。
芽衣は、その子どもを使って薬を盛ったのだ。許せるはずがない。
警察に通報しなかったのは、兄が海外で治療中だから。
通報すれば三つの家が絡み、噂は必ず兄の耳に届く。治療に障る。
あの二人も権力と金を持つボンボンだ。急所を蹴られて黙って引き下がるはずがない。
だが証拠がない以上――恨みは恨みに、借りは借り主に。芽衣に返すだけ。
芽衣がどう捌くかなんて、彼女の問題だ。
『待って。芽衣って腹黒、昨夜ほかにも何やったか知りたくない?』
『昨夜、芽衣はバーで酔わされてさ。渡辺のお母さんが駆けつけて通報しようとしたんだけど、相手が「瑚夏が金払ってやらせた」って言ったって』
……は。
瑚夏は冷たく笑った。
「自作自演で、濡れ衣まで? 芽衣、遊び方うまいじゃない」
「昨夜の連中、警察に自首させて。金、上乗せで」
芽衣が戻ってから何度も自分を“清純で可哀想な子”に仕立て上げ、渡辺家の夫婦は「瑚夏が芽衣を受け入れない」と決めつけた。
ちょうどいい。目の曇ったあの夫婦に、芽衣の素顔を見せてやる。
『ははっ。もう警察が“あの子たち”の調書取ってるよ。私も一緒に渡辺家行って迎えに行こっか?』
「見物したいだけでしょ。いらない」
『じゃあK市で待ってるね……』
「うん」
切ったあと、瑚夏の澄んだ瞳に、ふっと寂しさが滲んだ。
本当は兄が帰ってくるまで――待ってから離れたかったのに。
……
スイートルーム。
瑚夏が出ていくと、ベッドの男は目を覆っていた白いものを外した。
綿100%。真っ白。
――自分の下着だった。
男の顔色が一瞬で沈む。青髭と同じ色に。
スマホを掴み、電話をかける。
「女を一人、調べろ……!」
年寄り扱いだと?
俺は、まだ30だ。
受話器の向こうでは誰かが慌ただしく声を上げていた。
――速報。禁欲で有名な結城社長、ついに童貞卒業。
『……はい、結城社長!』
……
渡辺邸。
瑚夏が門をくぐり、最初の段を上がった瞬間。
「どんっ!」
赤いスーツケースが屋内から投げ出された。
「出ていきなさい!」
玄関口に立つ小林美子が、仇を見る目で瑚夏を睨みつける。
「孤児院上がりの分際で、うちでお嬢様をやってたくせに! 実の娘の芽衣は外で苦労して……やっと見つかったのに! あんた、芽衣を汚すような真似までさせて、人間なの!?」
瑚夏は、どこか他人事のように淡々としていた。余計な感情も、言い訳もない。
渡辺家が孤児院から彼女を引き取ったのは祖母の決断だった。
美子夫婦は虐げはしなかったが、関心も薄かった。
誕生日も、成績も、休みに何をしているかも――二人は知らない。
芽衣が戻ってから、美子は瑚夏に何人もの政略結婚相手を押しつけた。
家柄は一流。だが顔が、どれも好みに合わない。
「お母さん、怒らないで。唐沢家が“姉さんを刑務所にぶち込む”って言ってるの。姉さん、もう十分かわいそう」
芽衣が美子の腕に絡みつき、甘ったるい善人の声を出す。
唐沢家――昨日、瑚夏に急所を蹴られた、あのクズの片割れの家だ。
芽衣は唐沢家からの強硬な電話を思い出し、口元に残酷な弧を描いた。
瑚夏が玩具にされ損ねたなら、ミシン踏みの刑務所生活でも悪くない。
渡辺家は柏木家と縁談がある。芽衣が戻った以上、その席は本来“本物の令嬢”である芽衣のもの。
なのに柏木家の祖母は、瑚夏に少し未練があるらしい。
孤児のくせに、婚約を奪う?
孤児のくせに、あんな高級な顔を持つ?
「かわいそうですって?」美子はさらに怒りを増した。「唐沢家も菊池家も、どっちも相手にしたら終わりよ。あんた、二人の坊ちゃんを病院送りにして……渡辺家に恨みを集めて潰す気でしょう!」
「渡辺瑚夏。芽衣を傷つけた件、通報しないのは私たちの最大の慈悲。出ていけ。今後、お前のすべては渡辺家と無関係だ」
渡辺明山がいつの間にか出てきていた。冷たい顔、失望の色。
十八年育ててやった。政略結婚で渡辺家に利益をもたらせばいいのに、何度も邪魔をする。
挙げ句、二大名家を敵に回し、実の娘まで害した。
孤児院から引き取ったことを後悔する。
「この20万で家賃でも払え。孤児院にいた頃は福田姓だったろ。姓も戻せ」
明山が札束を差し出す。乞食に恵むような冷淡さ。
瑚夏は金には目もくれず、十八年「父」と呼んだ男を見て笑った。
澄んだ瞳が弓なりに細まり――美しい。だが口元には嘲りが薄く浮かぶ。
明山が眉をひそめた。
「慈悲なんていらない。私が通報する」
瑚夏は淡々とスマホを取り出し、通報する素振りを見せる。
本当は親友に、警察がいつ到着するか確認しようとしていただけだ。
その瞬間、芽衣が段を駆け下り、瑚夏のスマホを持つ手を掴む。
「姉さん、バカなの? 通報したら罪が重くなるってわからないの?」
瑚夏は冷笑する。
「なんでそんなに慌ててるの? やましいの?」
芽衣の表情が一瞬固まった。
瑚夏は唐沢家と菊池家を敵に回したのに、どうして平然としていられる?
その余裕はどこから?
「無駄口はいい。荷物持って出ていきなさい。警察が渡辺家に来て連行なんて、縁起でもない」
美子が苛立って催促する。
昨夜のバーの件、彼女は薄々違和感を掴んでいた。
だが、だから何だ。
芽衣が戻った今、柏木家との縁談を保つために瑚夏は不要だ。
別の縁談も断り続け、芽衣をいじめてばかり。残す理由がない。
この口実で追い出せば、誰も渡辺家を責められない。
「旦那様、奥様、警察の方が……」
瑚夏が振り返ると、制服姿の警官が数人、庭に入ってきた。
瑚夏は目尻を上げる。
――ちょうどいい。
美子と明山は同時に眉をひそめた。
最初から門をくぐらせなければよかった。みっともないし不吉だ。
芽衣だけは違った。
警官を見た瞬間、胸の奥から興奮が湧き上がる。
唐沢家、やっぱりやるじゃない。
瑚夏が今出ていけば、逮捕される惨めな姿が見られないと残念に思っていたのに――。
「姉さん……」
芽衣は心配そうな顔を作る。
「怖がらないで。私、よく面会に行くから。お父さんにも頼んで、あなたが中で……」
言い終える前に、警官の朗々たる声が響いた。
「渡辺芽衣さんは、どちらですか?」
