第3章
山本署長は体つきのいい中年男で、渡辺明山の言葉を聞くなり、わずかに眉をひそめた。
――意味がわからない。
「渡辺瑚夏さんに用がある」
山本署長の声は冷え切っていた。
渡辺明山は名指しされたことで、ますます「連行だ」と確信する。
「瑚夏……法を犯したなら、父親でもどうにもできん。今回を教訓にしろ。これからは二度と軽率な真似はするな」
山本署長の前で、慈父を演じてみせる。
「お姉ちゃん、大丈夫。航平兄さんに頼んで唐沢家に口添えしてもらう。きっと許してくれるから」
渡辺芽衣は拳をぎゅっと握りしめ、胸の奥の高揚を必死に隠した。
その言葉を聞いた山本署長の目つきが、途端に警戒へと変わる。眉間の皺も、さらに深くなった。
以前の担当警官は内心で舌打ちする。
(こいつら……芝居がうますぎる。あの顔を見てなきゃ、信じたかもしれん)
「山本署長。お探しなのは私です」
瑚夏は父娘を蚊ほどにも思わず、礼儀正しく山本署長へ向き直った。
何の用件かは知らない。だが、唐沢家の若様が殴られた件ではない――それだけは確信できた。
山本署長はすぐに表情を和らげ、穏やかな声で告げる。
「ご両親が、行方不明になった実娘の捜索を警察署に委託されていました。照合の結果、あなたがご本人です。ご両親の依頼により、お迎えに来ました」
実の両親――?
瑚夏の頭が、一瞬真っ白になる。
渡辺おばあさんに孤児院から引き取られたとき、瑚夏は3歳にもなっていなかった。
だが孤児院に来たのは、生後1か月にも満たない頃だと言われている。
そんな幼子が、自分の足で迷子になるはずがない。
だからずっと、そう思っていた。
生まれた瞬間から、歓迎されなかったのだと。捨てられたのだと。
なのに――警察署に頼むほど探していたなら。
最初から捨てたわけでは、ないのかもしれない。
捨てられていなかった。
それだけで、胸の奥が少しだけほどけた。
渡辺明山と渡辺芽衣は同時に固まった。
芽衣は顔を上げられず、そっと後ろへ下がる。
明山は署長の前で恥を晒し、視線の置き場がない。
「……誤解だった、というわけですか」
乾いた笑いで場を繕い、瑚夏へ向かって言う。
「瑚夏、早く山本署長に礼を言え。実の親を見つけていただいたんだ」
「ありがとうございます、山本署長。ご一緒します。ちょうど先ほど、渡辺家とは縁を切りました」
瑚夏の声は柔らかいのに、どこか淡々としていた。
縁を切った、か。
山本署長の視線が渡辺芽衣へ移り、すぐに察したように目を細める。
改めて瑚夏を見ると、清潔で整った顔立ちに、澄んだ瞳。実親が見つかったというのに浮き足立たず、礼儀がある。
――やはり椎名家の人間だ。
この年齢にそぐわない落ち着きは、育ちではなく血から来る。
そこへ、小林美子が媚びた笑みを作って口を挟んだ。
「山本署長、その子のご両親はどんなご家庭で? うちは渡辺家でお嬢様として育てましたから、苦労はさせておりませんの」
「申し訳ないが、相手の希望で身元は非公開だ」
山本署長の声は、いっそう冷たくなる。
非公開?
警察が送迎?
小林美子と渡辺明山は視線を交わし、同じ計算をした。
身元を隠して、警察署に迎えを頼む――車もないほど貧しいのに、見栄だけは張るタイプでは?
渡辺芽衣も同じ結論に飛びつき、胸が躍る。
さっき恥をかかされたばかりなのに、口が勝手に動いた。
「署長、身元が言えないなら、せめて大体の場所だけでも。じゃないと、私たち……落ち着かなくて」
山本署長は芽衣を見て、少し考え、鋭い目で言った。
「北区だ。タクシーは入れない場所だ」
瑚夏の両親が住むのは、北区の最上級の私有管理区画。一般車両は近づくことすら許されない。
タクシーなど論外だ。
「え、タクシーが来ない場所?」
芽衣の目に、どうしても隠しきれない嘲りが滲む。
今どきそんな場所があるなら、山奥のド田舎に決まっている。
N市北区のQ市――道路がガタガタで、車が来るほうが不思議な山間部。
芽衣の脳裏には、そこが浮かんだ。
渡辺瑚夏は「拾われて」十数年いい思いをしたのだ。
この先がどれほど惨めでも、それが分相応。
「お姉ちゃん、スーツケースは持っていったら?」
渡辺芽衣は唇の端に皮肉を貼りつけたまま言う。
「私のもの、好きでしょ。あげる」
瑚夏は視線をくれることもなく、冷たく返す。
「いらない。あんたが大事にしなよ」
服だろうが、渡辺家そのものだろうが――瑚夏は一度だって欲しいと思ったことがない。
「これはご両親から、渡辺家への謝礼です。養育への感謝として」
山本署長が助手から、手のひらほどの黒い箱を受け取り、渡辺明山へ差し出した。
「いや、瑚夏に持たせてやってください」
渡辺明山は即座に手を振って断った。
手のひらサイズで、ブランドの刻印もない。どうせ大したものじゃない――そう決めつけた顔。
山本署長はその嫌悪を見て、口元に冷笑を刻む。
――十億の預金が入った礼を、この連中に渡す価値などない。
渡辺明山は今度はスーツの内ポケットからカードを取り出し、瑚夏へ差し出した。
「このカードに200万入っている。実家で小商いでもして、しっかり暮らせ」
実際は100万にも満たない。
気づいたところで、署長に告げ口などできるはずがない。体裁の200万だ。
瑚夏はカードを一瞥し、淡々と言った。
「本当に200万入ってます?」
渡辺明山は顔を強張らせ、怒ったふりをする。
「な、何を言う! 渡辺家が200万程度で嘘をつくか!」
だが目の奥に、僅かな動揺が漏れた。
瑚夏の唇が、きれいに弧を描く。
「すみません。200万“しか”入ってないんですか、って意味でした」
「……」
明らかな挑発に、明山は言葉を失う。
「いりません。ご自分でどうぞ。私は私で、ちゃんと暮らします」
山本署長は必要書類に署名させると、瑚夏を連れて渡辺家を出た。
門の外まで見送った渡辺明山夫婦の前で、山本署長は自ら前の車のドアを開け、瑚夏を乗せる。
態度は異様に丁重だった。
「ねえ、山本署長……あの子に妙に丁寧じゃない?」
小林美子が小声で呟く。
渡辺明山は鼻で笑った。
「出世狙いのパフォーマンスだろ」
「演技学んでたんじゃない? 大物の娘に会ったみたいな媚び方だったわ」
車列はそのまま警察署へ向かった。
署長室。
扉をくぐった瞬間、瑚夏は部屋の様子もよく見えないまま、男に強く抱きしめられた。
同時に、あまりに馴染みのある淡いウッド系の香りが鼻腔を満たす。
この香水は1本240万、30ml、限定販売。
