第5章
三上は本来、ボス絡みのネタで腹の中がゴシップだらけだった。
だが「敵が送り込んだ女かもしれない」と聞いた瞬間、その手の興味は霧散する。
「……承知しました、結城社長」
踵を返したところで、結城朔夜のスマホが鳴った。
「姑母さん」
いつもの冷えた声を引っ込め、敬意をにじませる。
『朔夜、従妹の身元が確定したの。今日帰ってくるわ。土曜に家族の食事会を開くけど、来られる?』
「必ず伺います」
通話が切れてから、結城朔夜はスマホを収めた。
そして、ちょうど扉口まで行っていた三上へ言う。
「土曜の夜を空けろ」
「ですが……ケインとの約束がございます。彼は明後日朝の便で帰国すると」
三上の顔がわずかに曇る。
ケインはキャス国際グループの創業者で、世界トップ10に名を連ねる企業。ようやく取れた大口の話だ。
「厚礼を送れ。次に回す」
結城朔夜は平然としている。
「……承知しました」
三上は内心ため息をつきつつ、理解もしていた。
結城朔夜がああして親しげに「姑母さん」と呼ぶ相手は一人しかいない。椎名夫人・結城紗耶。
ボスは結城家の養子にすぎないが、結城紗耶との距離は、血の繋がった伯母甥以上だ。
彼女の用事となれば、どんな重要な会合でも蹴る。それが結城朔夜だ。
……
一方、瑚夏。
湖畔の別荘を出るとすぐ、椎名蒼介に電話を入れた。さっきまでいたショッピングモールまで迎えを寄こしてほしい、と。
車を停め、モールの出口を出たところで、スーツ姿の男が恭しく近づいてくる。
「お嬢様。運転手の石川です。椎名社長より、お迎えに上がるよう仰せつかりました」
「石川さん、こんにちは」
瑚夏は礼儀正しく会釈し、そのまま後部座席へ乗り込んだ。
ロールスロイス。
自分の家がどれほどのものか、瑚夏はいまだに知らない。
それでも「ただ事じゃない」だけは、嫌でもわかる。
けれど、彼女は聞かない。昔からそういう性格だ。浮かれず、焦らず。いずれ知ることになる。
「お嬢様、奥様にそっくりで……奥様みたいにお綺麗です」
石川がルームミラー越しに、照れくさそうに言う。
瑚夏は薄く笑うだけで返した。
「今日お帰りになるって、奥様、嬉しくて眠れなかったみたいで。朝から屋敷を飾らせて、ずっと待っておられます」
「それから遥お嬢様が、奥様以上に張り切って……使用人を引き連れてあれこれ準備してました」
「遥さん……?」
瑚夏は反射的に聞き返す。
「妹? それとも姉?」
「……あ」
石川は言いよどんだ。こういう話を、運転手の口から知らせるのは本来よろしくない。
少し間を置いて、短く答える。
「遥お嬢様は奥様の養女でいらっしゃいます。お嬢様とどちらが年上かは……私には……」
養女。
瑚夏は、笑うに笑えなくなる。
渡辺家は実の娘が行方不明だから自分を迎えた。
そして実の親もまた、娘を失って別の女の子を迎えたのか。
どうか、椎名遥が渡辺芽衣みたいな泥沼の相手ではありませんように。そう祈るしかない。
ロールスロイスはK市屈指の高級住宅地、テイワ別邸へ入る。
全28邸だけの特別区画で、各戸の門には専用の表札が掲げられていた。
瑠園へ入ってから主屋の前庭まで、車で二分。
瑚夏の中で、答えがほぼ確信へ変わっていく。
椎名姓、テイワ別邸。
K市四大名門の一つが椎名家で、祖上は国の元勲――それを知らないほど世間知らずではない。
ドアが開いた瞬間、濃厚で馥郁とした香りが流れ込み、美しい女性の顔が見えた。
「瑚夏ちゃん……」
結城紗耶が身をかがめ、車内の瑚夏を見つめる。声が震え、喉が詰まる。
瑚夏は、呼び方が出てこない。
初対面でいきなり「母」と口にするのは難しい。
結城紗耶が、優しく促した。
「……ママよ」
「ま……ママ……」
ぎこちない呼び声に、結城紗耶は澄んだ声で答える。
「うん」
泣きそうな目で笑う、その笑顔がやけにきれいだった。
結城紗耶は照れくさそうに目元を拭う。
「嬉しくて泣いちゃうなんて、ね」
その姿を見て、瑚夏の胸に温かいものが流れた。
陌生で、それでも嫌じゃない。
小林美子を十数年「母」と呼んでも、こんな気持ちになったことはない。
「さあ、降りて」
結城紗耶が手を差し出す。
細く長い指、健康的な桃色の手のひら。見ているだけで不思議と心がほどける。
瑚夏は自分からその手を取り、車を降りた。
目の前には五メートルはある花の回廊。
両脇には統一制服の使用人が十数人、整列している。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
揃った声が、まるで訓練のように響いた。
そこへ、高級仕立ての小花柄ワンピースの少女が花の回廊から現れる。
腰までの長い髪。花束を抱えた姿は、花の精みたいに整っていた。
「お姉さま、お帰りなさい」
少女は花束を瑚夏へ差し出す。
結城紗耶が慌てて紹介した。
「瑚夏ちゃん、この子が遥。あなたより一日だけ下なの。ほかのことはあとでゆっくり話すね」
椎名遥は上品な笑みで瑚夏を見る。
「お姉さまのために特別に用意しました。『自由のエルフ』と『クイーン・オブ・ナイト』、それからフリージア……気に入ってもらえたら嬉しいです」
瑚夏は花束に目を落とす。確かに綺麗だ。
だが――そこにあるのは、遥の言う『自由のエルフ』ではない。
本物の『自由のエルフ』なら、高地の紫外線で花弁の内側にごく薄い橙のグラデーションが出る。
けれど手元の花は粉白のグラデだけで、花弁の厚みも足りない。おそらくY市産のダイアナだ。
ダイアナも十分美しい。だが価格は、ほぼ三倍違う。
花に詳しくないなら見分けはつかない。だからこそ、そういうところで誤魔化す業者もいる。
「お姉さま、どうしたんですか? 気に入りませんでした?」
椎名遥の瞳に、警戒が走る。
瑚夏は微笑んだ。
「ありがとう。きれい」
礼儀正しく受け取る。
渡辺芽衣の前例があるせいで、瑚夏は本能的に遥へ警戒してしまう。
それでも決めつけはしない。遥が騙されただけであってほしい。
椎名遥は瑚夏が受け取ったのを見ると、笑みを二分ほど深める。そこに薄い嘲りが混じった。
「お姉さま、この花の回廊も全部輸入の花なんですよ。お好きですか?」
瑚夏は言われたとおり見た。主役は鈴蘭。配色と花型のバランスもいい。確かに手間がかかっている。
ただ――これも半分ほどは“輸入”ではない。
瑚夏は頷く。
「ありがとう。大変だったでしょう」
椎名遥の瞳に、納得の色が宿る。
椎名瑚夏は輸入花と国産花の違いがわからない――そう結論づけたのだ。
「少しだけ大変でした。でもお姉さまが戻ってきたと思うと、嬉しくて」
椎名遥は終始優雅な笑み。どんな場でも崩れない余裕がある。
派手な美人ではなく、知的で自信のあるタイプ。
瑚夏が観察する間にも、遥は目立たないように瑚夏を観察していた。
椎名家の血筋は容姿も体型も一級品ばかりだ。
その中でも瑚夏は群を抜いている。美しいだけでなく、俗世から浮いたような透明感がある。人混みにいても一目で視線を奪う――そんな存在感。
遥も美しい。だが、顔では負けるとわかっている。
酸っぱくないと言えば嘘になる。
けれど、顔だけがすべてじゃない。
この世には“使い道のない花瓶”が多い。遥が誇れるのは頭だ。
頭が良ければ、長所を最大化できる。
たとえば今日の小花柄。豪華ではないのに、花の回廊から現れた瞬間の印象は、ブランドの力以上に効く。
彼女は“目立ち方”を知っている。
それに比べて椎名瑚夏は、白いTシャツに黒のワイドパンツ。街の美人と変わらない。
椎名家の血だろうと、小さな家で育てば品は育たない。品は才能も必要だが、何より幼い頃からの環境がものを言う。
しかもあの冷めた表情。表情管理すらできていない。空気が読めないのが丸わかりだ。
上流の必修は表情管理。
椎名家が実娘を取り戻すかもしれないと知ったとき、遥も不安がなかったわけじゃない。
だが今は、胸の石を元に戻せそうだと思う。
椎名家はK市の名門――いや、この国でも頂点の家。
血縁も見るが、面子はもっと見る。
自分が椎名瑚夏より“外に出せる”存在でいれば、いずれ家の重心は自分に寄る。
遥は、そう信じていた。
