第2章 彼は松本寧音には江口式より百倍も良い。
林田家の中で、江口式の腹をいちばん気にかけているのは、林田婆さんだった。
八十を越えた婆さんは、とにかく早く曾孫の顔が見たい。だが江口式の腹は一向に動かない。そこで最高の婦人科医を探し出し、漢方を処方させ、薬膳の献立まで組ませて、彼女の体を整えようとしてきた。
江口式は薬が怖くても、老い先短い人の願いを叶えたい一心で、胃のむかつきをこらえて飲み続けた。婆さんのためでもあり、林田景司との夫婦関係を少しでも深めたかったからでもある。
――まさか。三年授からなかった元凶が、林田景司本人だったなんて。
「婆さん……」
江口式は声を押し殺し、鼻の奥がつんと痛むのを堪えながら深く息を吸う。
「もう、薬は飲みたくありません」
それを聞いた婆さんは、たちまち不機嫌になった。
「飲まないですって? それで私が生きているうちに曾孫を抱けるとでも? このまま死んでも目を閉じられないわ。江口式、あなたは林田家に嫁いだ以上、子を産み育てるのが務めでしょう。まったく聞き分けのない子だこと。景司がますますあなたを相手にしなくなるのも当然だわ」
刃のような言葉が胸に突き刺さり、江口式は息すらできなくなった。
婆さんは拒む隙を与えない。
「今夜、二人そろって必ず帰って来なさい!」
言い切るなり、通話は一方的に切れた。
江口式は肩を落とし、白くなるほど強くスマホを握りしめる。下唇を軽く噛み、眉を寄せて考え込んだ。
すぐに、また着信音が鳴る。
婆さんの言葉があまりにきつかったからだろう。今度は林田景司の母、夏川媛からだった。
夏川媛は江口式の母の親友で、母が亡くなったあと江口式を林田家へ迎えると決めた人でもある。この三年間、林田家で本心から江口式に優しくしてくれたのは、夏川媛ただ一人だった。
夏川媛はまず、やわらかな声で気遣った。
「式ちゃん、薬を飲みすぎて胃がつらいんじゃない?」
「お母さま……」
江口式は言い淀む。
景司が自分の子を望んでいない以上、口にしても惨めになるだけだし、夏川媛まで傷つける。そう思い、避妊薬のことは飲み込んだ。
小さく「……はい」とだけ返す。
「やっぱり。あなたは意味もなく意地を張る子じゃないものね。そういうことなら、薬はいったん休みましょう」
「ありがとうございます、お母さま」
江口式はようやく息をついた。
夏川媛はさらに続ける。
「最近、外祖父様のお世話でずっとこちらにも来てないでしょう。今夜、都合がよければ帰ってこない? あなたの好きなケーキを焼いたのよ」
家にいることの多い夏川媛は普段からお菓子作りが好きで、江口式は彼女の焼くケーキがいちばん好きだった。
せっかくの厚意を断るのも心苦しい。少し迷って、「はい、伺います」と答える。
電話を切る間際、夏川媛は言い添えた。
「景司も一緒に連れてきてね。仕事ばかりで家に寄りつかないんだから」
家に寄りつかないのは事実。
でも仕事ばかりかどうかは、怪しい。
――どうせ、幼なじみの相手でもしているのだろう。
そう思いながらも、江口式は景司へ電話をかけた。
「もし――婆さんが……」
耳に飛び込んだ女の声に、江口式は数秒固まった。言いかけた言葉を呑み込む。
向こうの松本寧音もすぐに気づいたらしく、やわらかな口調で謝った。
「ごめんなさい、景司。あなたの電話だと思って出ちゃった」
「いいよ」
林田景司の声音は穏やかで、少しも不快そうではない。
だが江口式へ向けられた声は、あからさまに温度が下がっていた。
「何か用か?」
邪魔したんだ――
その瞬間、江口式の脳裏に、家政婦の言葉が蘇る。
『あの人に、若様の子を産む資格なんてありません』
自分には資格がない。では、松本寧音ならあるのだろうか。
「婆さんが、あとで本家で夕食をって言ってる」
江口式は簡潔に告げた。
「無理だ」
返答はさらに簡潔だった。
「わかった」
今度は江口式のほうから先に通話を切る。
顔色は冴えなかったが、軽く化粧を直してからタクシーで本家へ向かった。
林田景司の父は早くに亡くなっている。祖父に育てられ、林田グループの後継者として鍛え上げられたが、その祖父も三年前に病で他界した。広い邸宅にいるのは今、林田婆さんと夏川媛という二人の女主人、それに景司の従妹・林田秋実だけだ。
林田秋実は幼いころに両親を交通事故で亡くし、家族に甘やかされて育ったせいで、我儘な性格になっていた。
江口式が玄関へたどり着くと、居間から秋実のはしゃいだ声が聞こえてくる。
「一位! 寧音お姉さんが一位だよ! 国内外のエリートがあんなにいたのに、ちゃんと一位を取るなんて、ほんとすごい!」
「江口式とは大違い。洗濯と料理くらいしかできないくせに」
「婆さん、ほんとあのとき何をそんなに急いでたの? どうしても兄さんを江口式と結婚させるなんてさ。もう少し待って、寧音お姉さんが海外から戻ってから結婚してたら、どれだけよかったか」
「ほら、私が撮った写真見て。二人、すごくお似合いでしょ?」
秋実は江口式に背を向けていて、気づいていない。ただ夢中で婆さんに写真を見せていた。
江口式は遠目に一瞥しただけだったが、写真の中で林田景司と松本寧音が抱き合うように密着している姿に、足が止まる。中へ入る力が失せた。
「こ……これは、どういうことなの?」
写真を見た婆さんも、さすがにまずさを感じたのか、探るように問い返す。
秋実はすぐに説明しようとして――
「寧音お姉さんが転びそうになって、兄さんが……」
そこまで言って、視界の端に痩せた人影を見つけた。言葉を呑み込み、すぐさま言い換える。
「兄さんが慌てて抱きとめたの。婆さん、あのときの兄さん、どれだけ寧音お姉さんのこと心配してたか見てないでしょ」
そして追い打ちのように続ける。
「兄さん、寧音お姉さんにはすっごく優しいんだよ。江口式にするより、百倍はね」
婆さんはその言い方をよくないと思ったらしいが、止めはしなかった。
秋実はさらに言う。
「江口式なんて、寧音お姉さんと比べるまでもないよ。兄さん、家にはあまり帰らないくせに寧音お姉さんにはしょっちゅう付き添ってるじゃない。それって兄さんが寧音お姉さんを好きってことだよ。私に言わせれば、最初から兄さんが結婚する相手が寧音お姉さんだったら、婆さんだってとっくに曾孫を抱けてたはず」
「余計なことを言うんじゃないよ」
婆さんはようやくたしなめたが、ひどく弱々しいものだった。
秋実は意にも介さない。
「事実でしょ。寧音お姉さんみたいにきれいでもないし、優秀でもない。そのうえ女のくせに子どもも産めないなんて、ほんと取り柄なし」
ちょうどそのとき、夏川媛が台所から出てきた。前後の流れは知らず、最後の一言だけを聞いて、さらに玄関に立つ江口式の顔色の悪さを見て、あわてて叱りつける。
「秋実、やめなさい! 子どもみたいに、わかったような口をきかないの」
そしてすぐ江口式へ笑顔を向けた。
「式ちゃん、ちょうどよかったわ。ケーキ、焼き上がったところなの。早くいらっしゃい」
そこでようやく婆さんも、江口式の存在に気づく。
江口式はその場から動かなかった。気まずい沈黙が落ちる。
夏川媛は歩み寄り、江口式の手を取って、笑顔のまま場を繕った。
「妹はまだ子どもなんだから、気にしないで。思ったことをそのまま口にしただけよ」
江口式は、まるで悪びれず、むしろ眉を上げて挑発してくる秋実に冷たい視線を向ける。
「十九歳よ。もう子どもじゃないわ」
甘やかされて育った秋実が江口式に失礼を働くのは、今回が初めてではない。これまでは江口式が受け流してきたが、今日はそうしなかった。そのため夏川媛も少し戸惑う。
「早くお義姉さんに謝りなさい」
夏川媛が叱ると、秋実はぷいと顔を背けた。
「本当のことしか言ってないもん。謝らない」
立ち上がり、まるで自分が大きな被害者であるかのように言い返す。
「江口式が賞でも取ってくるか、林田家に子どもを産んで、私が間違ってるって証明できたら謝る」
夏川媛がさらに何か言おうとしたが、婆さんが遮った。
「もういい! あの子が聞き分けがないなら、あなたまでそうなることはないでしょう。なにをいちいち本気で取り合ってるの。だいたい、秋実の言うことだって間違ってはいないんだから」
