不治の病を宣告されて、彼女は…

不治の病を宣告されて、彼女は…

月島 ことね · 連載中 · 462.6k 文字

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紹介

余命幾ばくもないというのに——彼は、別の誰かを愛している。

だから私は、そのすべてを置き去りにした。

なのに今さら、彼は私を取り戻そうと追いかけてくる。

……だけど、私がその願いを受け入れるとでも?

チャプター 1

「江口式さん、できるだけ早く手術を受けていただく必要があります。脳腫瘍の摘出を……」

悪性腫瘍の検査結果を握りしめたまま診察室を出た江口式は、真っ先に林田景司へ電話をかけた。

コール音はいつまでも鳴り続ける。出ない。

――なのに、耳に飛び込んできたのは、聞き慣れた声だった。

江口式は足を止める。

顔を上げると、ロビー中央の大型テレビに、スーツを端正に着こなした男が映っていた。英俊な顔立ちはいつもの冷たさを消し、穏やかで耳に心地いい声で授賞の辞を述べている。

林田景司だった。

スピーチを終えると、林田景司は両手でトロフィーを隣の女性に差し出した。その瞳の奥には、妻である江口式ですら一度も見たことのない、ひどくやさしい光が宿っている。

待合スペースがざわつきはじめた。

「今年のロボットデザインコンテストの受賞者、女の人なんだ。しかも、あんな美人……?」

「知らないの? 審査員に幼なじみの彼氏がいるんだって。大会中ずっと後ろ盾だったらしいよ。ほら、今トロフィー渡してる人。林田グループのトップ、林田景司。あの人がついてるなら、最初から決まってたようなもんでしょ」

「それは違うでしょ。松本寧音さんってドイツ帰りの理工系博士で、国内外でもトップクラスのエリートだよ。実力でしょ、男のコネじゃない」

「だから林田景司もあそこまで力入れるんだ。幼なじみってことは家柄も釣り合ってるし、二人とも優秀。まさに天が決めた相性ってやつ……」

江口式は検査結果を握りしめたまま、くらりと眩暈を覚えた。

耳鳴りが波のように押し寄せ、耐えきれず冷たい壁へ背を預ける。ようやく呼吸が落ち着いたころには、松本寧音は受賞コメントを終えて壇上を下り、配信も終わっていた。

今なら出るはず。

そう思って、江口式はもう一度かけ直した。

「……何か用か?」

さっきのやわらかな声とは別人みたいに、冷え切った声音。胸が詰まり、江口式は一瞬言葉を失った。

口を開きかけた、そのとき――

『景司、どうお祝いしてくれるの?』

弾むような女の声が受話器の向こうから聞こえた。

「待ってて」

林田景司の声。やさしさが、痛いほど滲んでいる。

そして次に江口式へ向けられたのは、どこまでも淡々とした、わずかに苛立ちすらにじむ声だった。

「今、忙しい。大した用じゃないなら何度も電話するな。帰ったら聞く」

通話は切れた。

江口式は無表情のままスマホを握り、ゆっくりと瞬きをする。

二、三秒後、暗くなった画面を見つめ、自嘲するように口元をわずかに歪めた。

その夜、林田景司は帰ってこなかった。

江口式が目にしたのは、林田景司の従妹が投稿したSNS。動画の中では、皆が松本寧音を囲んで祝福している。

林田景司もいた。松本寧音のすぐ隣に立ち、彼女を見つめる目には、隠しようのないぬくもりが満ちていた。

灯りを落とした寝室で、江口式の手足は冷え切っていた。

エアコンの温度を上げ、スマホの電源を落として横になる。

林田景司はもう一週間も家に帰っていない。今夜もきっと帰らない。

そう思いながら眠りについたが、胸に重いものを抱えたままの浅い眠りだった。だから、寝室のドアが開く音で、すぐに目を覚ました。

身を起こした瞬間、差し込んだ灯りに目を細める。次に見えたのは、浴室へ入っていく林田景司の背中だけ。

時計に目をやると、もう深夜を回っている。

帰ってきたんだ。

幼なじみの相手は、しなくていいの?

江口式はもう眠れなかった。ぼんやりと長いこと座り込んでいたが、やがて明かりが消え、隣のベッドが沈んだことでようやく我に返る。

林田景司が彼女の腰を抱き寄せ、顔を首筋に埋める。冷えた声が落ちた。

「俺に何か用があったんだろ」

吐息が首元をくすぐる。江口式は深く息を吸い込む――だが鼻先をかすめたのは、かすかな甘い香りだった。

知っている匂い。

林田景司が松本寧音と一緒にいたあとは、いつもこの香りを纏って帰ってくる。風呂に入ったあとでさえ、完全には消えない。

心臓が速く脈打つ。

江口式は林田景司の手を押さえ、下唇をそっと噛んだまま、何も言えなかった。

林田景司は短気だった。

「言わないなら、始めるぞ」

今は話す気分じゃない。

まして、抱かれる気分でもなかった。

もう、疲れていた。

「寝ましょう。明日にして」

そう言って押し返すと、闇の中で林田景司の目がひやりと沈んだ。

江口式が彼を拒んだことなど、今まで一度もない。今回はあまりに不自然だった。

林田景司はすぐに思い当たる。今日、松本寧音のことで彼女の電話を切った、その件だと。

「拗ねてるのか?」

問い詰めるような口調のまま、さらに言い聞かせるように続ける。

「松本爺さんが亡くなったばかりなのは知ってるだろう。最期に、寧音のことを頼まれた。狭量な真似はするな」

「ええ、わかってる。年長者との約束で松本寧音さんの面倒を見てるだけでしょう。私は気にしてない」

江口式の声は静かだった。

だが林田景司の耳には、嫌味にしか聞こえなかったらしい。

「気にしてないなら、くだらない意地は張るな」

そう言って再び手を伸ばし、低く告げる。

「江口式、おまえはこの家での役目を忘れるな。拒む資格があると思うのか」

江口式の抵抗が止まった。

三年前、彼女は政略結婚を受け入れて林田家に嫁いだ。林田家は江口家の経営危機を救い、その代わりに江口式は林田景司の妻となった。

けれど――三年経っても、彼女は一度も妊娠しなかった。

翌朝、目を覚ましたときには、林田景司はすでに朝食を済ませて出かけたあとだった。

その日の粥は、なぜか甘いものが食べたくなった。砂糖を取りにキッチンへ向かい、入口で足を止める。

家政婦の長島さんが背を向けたまま、小瓶を取り出し、煎じたばかりの薬へ素早く粉末を振り入れていた。

江口式はそれを目の当たりにし、黙って半歩下がると、何事もなかったように席へ戻った。

二分後、薬の入った椀が江口式の横に置かれる。

「奥様、お薬ができました。熱いうちにどうぞ」

長島さんはそう言うと、いつものように江口式をじっと見張った。

長島さんは林田景司の祖母が寄越した家政婦で、この薬も祖母が手配したものだ。体を整えるため――そう聞かされていた。

以前の江口式は、長島さんが飲むところを見届けるのは、祖母への報告のためだと思っていた。

けれど今は、そうとも限らない気がした。

「まだ朝食の途中だから、あとで飲むわ」

「召し上がるのが遅すぎます。冷める前にお飲みください」

江口式が冷たく目を向けると、長島さんは一瞬だけたじろいだ。普段おとなしく穏やかな江口式が、あからさまに怒気を見せたのは初めてだったのだろう。

だが次の瞬間には、また平然と口を開く。

「奥様、三年もご懐妊されないものですから、老夫人に毎日きちんと薬を飲ませるよう言いつかっております。苦いからと飲まれないと、私も困るんです。もしよろしければ、薬をやめていいかどうか、老夫人に伺ってみましょうか?」

江口式はスプーンを置き、椀を持ち上げて匂いを確かめた。込み上げる吐き気を堪えながら、一気に飲み干す。

空になった椀を置くと、長島さんの得意げな顔も見ず、そのまま寝室へ戻って薬を全部吐き出した。

それから三十分あまり後、江口式はひとつの荷物を発送した。

その日の午後、メールボックスに検査報告が届く。

内容を読み終えた瞬間、顔色がみるみる白くなった。マウスを握る指が震える。

彼女が飲まされていた薬には、大量の避妊薬成分が混入していたのだ。

どうりで、もともと健康だった体が、結婚後には「虚弱で授かりにくい体質」だと診断されたはずだ。

避妊薬が、彼女の体を壊していた。

江口式は長島さんの部屋へ駆け下りた。だが部屋の前に着いた途端、中から漏れた言葉に足が止まる。

「若様のお言いつけは覚えてますよ。あの人に、若様の子を産む資格なんてありませんからね……」

長島さんの声は続く。

「ご安心ください。今まではバレるのが怖くて、スープに少量ずつしか入れられませんでしたけど、今はあの人が飲む薬に混ぜてます。量を増やしたって、気づくはずありません」

若様――

林田景司。

一気に力が抜けた。頭がくらくらして、どうやって自室へ戻ったのかも覚えていない。

長く鳴り続ける着信音で、ようやく我に返った。

発信者は林田景司の祖母だった。

「江口式、今夜は景司と一緒にこちらへ来て夕食を食べなさい。それと、専門医に新しく処方してもらった薬も持っていきなさい」

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育ての親の一家に家を追い出されたあの日、私は微笑みを浮かべながら、奴らが施しとしてよこした金をゴミ箱へと投げ捨てた。

誰も想像すらできないだろう。この私が、数々の名門貴族や権力者たちが大金を積んで列をなし、首を長くして診察を待つ伝説の名医——【暁】だなんて。

私が時価総額数十億ドルのファッション帝国を裏で支配していることも、ウォール街の株価をたった一回の取引で大暴落させられることも、誰も知らない。私はその正体を、この平凡で冴えない素顔の裏にすべて隠し持っていた。

さらに劇的なことに、私の実の親はこの街で頂点に君臨する最高峰の大富豪だった。

そして私の婚約者——すでに顔を合わせているにもかかわらず、その正体を知らなかったあの男こそ、この街の誰もが名前を聞くだけで震え上がる、ビジネス界の冷酷な死神:梅原晴琉だったのだ。

ある日、彼は私の手を執り、ゆっくりと距離を詰めると、耳元で低く囁いた。

「俺のこの鼓動、今なら感じられるか?」

私は至って真面目な顔で彼の胸に手を当て、大真面目にこう返した。

「心拍数は確かに少し高めですが、非常に健康的です。心配ありませんよ」

彼は一瞬呆気にとられ、それからふっと吹き出した。その瞬間の彼の笑顔に、私の心臓もなぜかドクンと跳ねた。それは、自分自身でも説明のつかない初めての衝動だった。

だが、彼が私の真実に一歩ずつ近づくにつれ……私の心は揺らぎ始めている。自分の最後の秘密を、あとどれくらい隠し通せるのだろうか。

外されるはずのなかった仮面——。だが、あの人が執拗にその霧を剥ぎ取ろうとするとき、私は一体どこへ向かえばいいのだろう?