第4章 林田景司、私たち離婚しましょう
最初、江口式が祖母に無理やり漢方を飲まされ、薬膳まで食べさせられるようになった頃――彼女は一度だけ、林田景司に訴えたことがある。
漢方の匂いがどうしても苦手だ。間に入って、少し取りなしてほしい――と。
そのとき彼は、どう言ったか。
「それはおまえの問題だ。俺には関係ない」
彼女は妻なのに。彼女が感じるつらさは、彼にとって「関係ない」のだ。
昔は、ただ関心が薄いだけだと思っていた。けれど今ならわかる。あれは無関心ですらなく、冷酷そのものだった。
避妊薬をこっそり混ぜさせておきながら、何も知らずに飲み干す彼女を、冷ややかに眺める。小馬鹿にするみたいに。
仇にだって、そこまで陰湿な真似をするだろうか。
「早く飲んでよ!」
林田秋実は鼻をつまんだまま、今にも癇癪を起こしそうだった。
「さっさと飲みなさい!」
祖母まで畳みかける。
夏川媛は口には出さないものの、眉間に影を落としたままこちらを見ている。飲ませたいのは見え見えなのに、強く言うのは憚られる――そんな顔。
江口式は椀を手に取り、込み上げる吐き気を押し殺して、喉の奥へ流し込んだ。
どれほど不味くても、これが最後の一杯。
今日を境に、二度と口にしない。
夕食のあと、祖母は新しく煎じた漢方を、使用人に命じて林田景司の車へ積み込ませた。
夏川媛は食盒に詰めた小さなケーキを江口式へ手渡し、慈しむような声音で慰める。
「ずっと薬を飲み続けるのもつらいでしょう。少し休んで、一週間後にまた飲み始めなさい」
――要するに、結局は飲み続けろということだ。
江口式は礼だけ述べ、反論しなかった。
夏川媛は彼女が受け入れたのだと思ったのだろう。二人を玄関まで見送る。
来るときはタクシーだった。だが今は林田景司がいる。普通なら、彼の車で帰るのが当然だ。
けれど――あの男が自分をどれほど嫌悪しているかを思えば、同じ車内にいることすら望んでいないはずだ。わざわざ惨めになりたくなくて、江口式は助手席へは向かわなかった。
それでも夏川媛に「風が冷たいわ、早く乗りなさい」と促される。
振り返れば、林田景司はすでに運転席に座り、エンジンをかけていた。発進しないのは、明らかに彼女を待っているからだ。
少し迷ってから、江口式は後部座席に乗り込んだ。
夜の街は車列で光が流れ、車内は息遣いが聞こえそうなほど静まり返っていた。
江口式は遠くのネオンをぼんやり眺め続ける。目が乾いて痛み始めた頃、ようやく視線を戻し、背筋を伸ばして隣の男の横顔をじっと見た。
三年前、本当は心に決めた人がいた。
それでも事情に追い込まれ、政略結婚を受け入れて林田景司に嫁いだ。嫁ぐと決めたその日から迷いは捨てた。夫婦として情を育み、子どもを授かることだけを考えてきた。
すべての感情をこの男に注いだ結果――返ってきたのは、「おまえに俺の子を産む資格はない」という言葉だった。
資格がないなら、どうして最初から結婚なんてしたのだろう。
答えの出ない問いに、江口式はもう考えるのをやめた。始まりが拙速だったのだから、終わるときにまで、いちいち真相を暴く必要はない。
視線を逸らした、そのときだった。
ふと目に入ったものに、江口式の瞳がきゅっと縮む。
林田景司の襟元に、口紅の跡。
松本寧音は風邪をひいているんじゃなかったの。――それでも、こんな痕を残すほど、熱を交わせるのか。
目の奥が刺されるように痛み、江口式は窓の外へ視線を戻して、苦く笑った。
彼の子を産む資格がないのなら、松本寧音にはあるのだろう。
なら、譲るしかない。
「林田景司」
江口式は彼のフルネームを呼んだ。声がわずかに震える。
林田景司が横目で一瞥する。
「言いたいことがあるなら、はっきり言え」
彼女の視線にはさっきから気づいていた。だが、わざと触れなかった。用があるなら、自分から言う。言わないなら大したことではない――そう判断したのだ。
少し考えたあと、彼はさらに付け足す。
「さっき、一緒に帰らなかったことを責めるならやめておけ。電話したとき、寧音は点滴中だった。付き添いが必要で――」
「林田景司、離婚しましょう」
それ以上を聞きたくなくて、江口式は遮った。
胸の内で何度も何度も巡らせてきた言葉を、ついに口にする。
言い切った瞬間、胸にのしかかっていた石が、すとんと落ちた気がした。
先がない関係なら、早く終わらせたほうがいい。お互いこれ以上苦しまなくて済む。
江口式は背筋を伸ばし、改めて告げる。
「時間を作って。できるだけ早く離婚手続きをしたいの」
きぃ、とタイヤが鳴るような急ブレーキ。
車体が赤信号の手前で鋭く止まる。
ハンドルを握る林田景司の手の甲には、青い筋が浮いていた。眉間の皺が深く刻まれ、唇が固く結ばれる。
十数秒後、信号が青に変わる。彼は再び車を走らせ、薄い唇をわずかに開いた。
「江口式、ふざけるな。俺は寧音と、おまえが考えてるような関係じゃないと言ったはずだ」
「松本寧音さんは関係ない」
林田景司が自分を嫌っている以上、たとえ彼女がいなくても、いずれ別の誰かが彼の心を占めただろう。
「ふざけてなんかいないわ。林田景司、私は本気で、早く離婚したいと思ってる。お母さまと祖母への説明は、あなたからお願い」
沈黙が落ちる。
林田景司は深く息を吐いた。
「だから、もうやめろと言ってる。駄々をこねる前に、自分にその資格があるか考えろ」
そして、冷ややかに続ける。
「おまえの家の会社に投資したのは、うちが政略結婚を受けたからだ。離婚して林田グループが資金を引けば、江家は持ちこたえられるのか。――それに、おまえの祖父は心臓を患ってる。治療費だって莫大だ。この数年、おまえは働いてない。林田家に養われてきた身で、離婚したあと何で祖父を支えるつもりだ」
彼は、自分をそんなふうに見ていたのか。
林田家を金づるとしか思っていない。だから離婚などできるはずがない――そう思っているのだ。
江口式はもう言い争う気にもなれなかった。
「明日、弁護士に離婚協議書を作らせるわ。時間を空けて。明日、署名して」
言い終えるか終えないかのうちに、林田景司のスマホが鳴った。
車載Bluetoothに繋がれ、松本寧音の声が車内に響く。
「景司、うちの水道管が破裂したみたいなの。修理の人、呼んでもらえる?」
その瞬間、林田景司は低い声で言った。
「今、そっちへ行く」
通話を切ると、アクセルを踏み込み、すぐに強くブレーキを踏む。
そして氷のような声で命じた。
「降りろ」
二人の住む水の苑までは、あとひとつ信号を越えれば着く場所だった。
つまり彼は、松本寧音のもとへ向かうから、おまえはここから一人で歩いて帰れと言っているのだ。
――やはり彼女は、彼の中でそれほど重い存在なのだ。
水道管の破裂くらい、一本電話を入れれば修理業者は手配できる。それでも自分で向かう。しかも、江口式が離婚を切り出した、このタイミングで。
江口式は何も言わず、すぐに車を降りた。
冬の夜風は容赦なく冷たい。コートの前をきつく押さえ、一歩ずつ家へ向かう。
一キロにも満たない道のりだったが、たどり着いた頃には体も、そして心も、芯まで冷え切っていた。
けれど歩きながら、これから何をすべきかだけは、むしろはっきり見えてきた。
母が亡くなってから、江家はもう彼女の帰る家ではない。
祖父は心臓が悪い。離婚のことを今すぐ伝えるのは避けたかった。大きな荷物を持って祖父母の家へ転がり込むわけにもいかない。まずは落ち着ける場所が必要だ。
だから翌日、江口式は弁護士に離婚協議書を作らせると同時に、不動産仲介で家具付きの賃貸も決めた。
離婚協議書の内容は簡単だった。
慰謝料も財産分与も求めない。林田家の金は、一円たりともいらない。
書斎のデスクに、離婚協議書と結婚指輪を置く。午後三時、江口式はキャリーケースを引いて水の苑をあとにした。
その夜、暴風雨が近づき、半開きになっていた窓が風に煽られて開いた。机の上の書類がばさばさと床へ散る。
それに気づいた家政婦が慌てて窓を閉め、床に落ちた書類を拾い集め、ひとまとめにして机の隅に置き直した。
部屋をひと通り確認してから出ていったが、机の角の隙間に転がり込んだ結婚指輪には気づかなかった。
